君にき〜めた
春の風が街を吹き抜け、桜の花びらが舞っていた。
大学の入学式帰りの智也は、背中に緊張と新生活への小さな不安を抱えながら歩いていた。
「はあ……」
ふと吐き出した息は、知らず重たかった。
そのとき、後ろから声が飛んだ。
「ごめん、そっち避けて!」
振り向く間もなく、自転車が脇をすり抜ける。
危ない、と思った瞬間、ガタン! と音がして少女が転んだ。
「……大丈夫か!?」
智也は駆け寄った。少女は制服のスカートを気にしながら、膝の擦り傷を見つめていた。
それから、顔を上げて、困ったように笑った。
「ありがとう……やっちゃった。」
肩までの黒髪が風に揺れ、頬が桜色に染まっていた。
その目が、まっすぐで、透き通るようだった。
「いや、俺は何も……血、出てるじゃないか。」
智也はハンカチを差し出した。少女はそれを見て、少し戸惑って、でも素直に受け取った。
「ありがとう……凛、です。」
「智也。橘 智也。」
二人の春は、こうして始まった。
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大学の帰り道、智也はまたあの日の並木道を歩いていた。
「……橘くん?」
振り向くと、凛がいた。制服姿で、今日は自転車ではなく歩いていた。
桜の花びらが肩に積もり、笑顔が浮かんだ。
「この前はありがとう。あの後、無事に帰れた?」
「おう。お前は大丈夫だったのか?」
「うん。……あの時、橘くんが声かけてくれてよかった。」
少しだけ、智也の胸が温かくなる。
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偶然が何度も重なり、二人は話すようになる。
・智也の真面目で不器用なところに、凛は「不思議と安心する」と笑う。
・凛の明るさとたまに見せる寂しげな目に、智也は「守ってやりたい」と思う。
小さな会話が積み重なる。
「私、昔からドジでさ……橘くんみたいな人が近くにいたら、きっと怪我も減るのに。」
「……俺も、ドジだけどな。」
「そうかな? でも、不思議と一緒にいると安心するよ。」
その言葉に、智也はうまく言葉を返せず、ただ小さく頷いた。
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ある日、雨上がりの街角で。
凛が濡れた髪を整えながら笑った。
「橘くん、今度一緒にどこか行かない?」
「……どこかって?」
「桜、まだ間に合うから、お花見。橘くんと見たいな。」
智也の胸が高鳴った。
「……いいな、それ。」
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休日の昼下がり。
空は柔らかな青で、雲ひとつない。
智也と凛は、川沿いの公園の桜並木を歩いていた。
風に乗って、花びらがひらひらと舞い落ちる。
歩道に敷き詰められたような花びらが、二人の足元を白く染めていた。
「きれい……。」
凛が小さくつぶやいた。
その横顔を、智也はふと見た。
柔らかな光に透ける髪。花びらが髪に落ち、凛は気づかずにそのままだった。
智也はそっと手を伸ばし、花びらを取った。
「あ……ありがとう。」
頬が少し赤くなる凛。
「桜が似合うな、お前。」
「な、なにそれ……! からかってる?」
「……本気で言ったんだけどな。」
凛は照れたように笑った。
「……橘くん、こういう時だけ素直なんだね。」
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二人は桜の下のベンチに座った。
風が通り抜け、また花びらを散らした。
「橘くん、もしさ……こういう時間がずっと続いたらいいのにね。」
「……続けよう。俺が守る。」
凛が目を丸くして、少し笑った。
「そんな大げさな……でも、嬉しいよ。」
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その後も、二人は歩きながら、たわいない話をした。
・智也の好きな本の話
・凛の小さな夢(小説を書いてみたい、旅に出たい)
・大学での小さな出来事
・凛の家の猫の話
一つ一つが、二人を少しずつ近づけた。
「また来ような。桜、来年も。」
凛はその言葉に目を細めた。
「うん、絶対だよ?」
その笑顔は、春の光よりまぶしかった。
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休日の昼。
空は澄んで、風は少し冷たいけれど心地いい。
川沿いの桜並木を、智也と凛は並んで歩いていた。
風に乗って花びらが舞い、二人の肩に積もる。
凛は髪に絡んだ花びらに気づかずにいて、智也は見ていてふと手を伸ばした。
「あ……」
花びらを取っただけのことなのに、凛は少し頬を赤くした。
「……ありがとう。」
「いや……取れそうだったから。」
智也はそれ以上のことは言わず、視線を前に戻した。
凛が小さく笑うのが横で聞こえた。
「そういうとこ、橘くんらしいね。」
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桜の下のベンチに並んで座る。
風が吹いて、また花びらが舞った。
しばらく二人は黙って、ただ桜を眺めていた。
気を張る必要もなく、変に会話を埋めようともしない、そんな時間だった。
凛がぽつりと言った。
「こういうの、いいね。」
「……ああ。」
「毎年こうして見れたらいいな。」
「……また見に来よう。」
凛が横目でちらっと見て、静かに笑った。
「約束だよ。」
智也は答えず、でも軽く頷いた。
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智也は食べかけのコンビニおにぎりを手に、大学の並木道を歩いていた。
木陰のベンチに座ると、凛が軽く駆け寄ってきた。
「橘くん、お疲れ。」
「おう。」
「なにそれ、梅?」
「梅。」
「渋い……。」
凛は笑いながら、バッグからサンドイッチを出した。
二人はただ黙って、並んで食べた。
風が葉を揺らし、光と影が交互に頬を照らした。
「こういうの、好きだな。気張らなくていい時間。」
「俺も。」
笑って、また二人は食べた。
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待ち合わせ場所の小さな書店。
智也が好きな歴史の棚を眺めていると、凛がやってきた。
「またそれ? ほんと好きだよね。」
「落ち着くんだよ、こういうの。」
「じゃあ私も落ち着くとこ探そう。」
そう言って凛は小説コーナーに向かった。
その背中を、智也はどこか誇らしい気持ちで見送った。
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ある雨の日、二人は駅前の小さな喫茶店に入った。
窓の外を雨粒がすべり、通りをぼんやり滲ませていた。
「雨の音、いいね。」
「……ああ。」
「橘くん、なんか安心する。」
智也は顔を上げる。
「なんで?」
凛は少し考えて、笑った。
「理由とかないの。隣にいてくれるだけで。」
智也はそれ以上言わなかった。ただ、湯気の向こうで彼女の横顔を見ていた。
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大学の図書館、閉館間際。
テーブルに広げたノートと教科書の山に、智也は頭を抱えていた。
「……だめだ、数字が全部記号に見える。」
凛が横で笑った。
「もう、しょうがないなあ。」
そっと智也のノートを引き寄せる。
「ここはね、式の途中で簡単にできるの。見て。」
凛が赤ペンで書き加えると、難解だった計算がすっと理解できた。
「……すげぇな。」
「でしょ。」
凛は小さく得意げに笑った。
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休日の午後、二人は街の小さな美術館にいた。
静かな展示室、柔らかな照明。
凛はガラスケースの中の陶器を眺め、ぽつりと言った。
「こういうの、すごいな。何百年も前の人が作ったのに、綺麗だなって思えるんだもん。」
智也は少し横を向いて、凛を見ていた。
「……凛のほうが綺麗だけどな。」
凛は顔を赤くして、慌てて視線を外した。
「もう、ほんと不意打ちでそういうこと言うのやめて……。」
智也も少し照れたように笑った。
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夕方、突然降り出した雨。
二人は駆け込んだ商店街の軒先で肩を並べて雨宿りしていた。
「橘くん、傘持ってないんでしょ?」
「ああ。」
凛はバッグから折りたたみ傘を取り出した。
「じゃあ、これで帰ろ。」
二人で一つの傘に入る。
狭い空間、すぐ近くに凛の横顔があった。
「……小さいな、この傘。」
「私のだもん。」
凛は少し笑った。
「……でも、近いのも悪くないでしょ。」
「……ああ。」
雨の音だけが、静かに響いていた。
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智也が朝の通学路、駅前のパン屋で買ったメロンパンを頬張っていると、後ろから凛が声をかけた。
「それ、美味しいんだよね。」
「おう。」
「いいなあ。」
智也は無言で、買ったパンを二つに割り、半分を凛に差し出した。
凛は驚いて、でもすぐに嬉しそうに受け取った。
「……ありがと。」
二人で並んでパンをかじりながら歩く朝。
そんな何気ない瞬間が、智也には妙に心地よかった。
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日曜の夕方。智也と凛は大学近くのスーパーの袋を両手に持って歩いていた。
袋の中身はカップ麺、冷凍餃子、安売りの卵。
「これで一週間は生き延びられるな。」
智也が冗談混じりに言う。
「もう、そんなのばっかり食べてたら病気になるよ?」
「ちゃんと栄養指導してくれ。」
「ほんとにやるよ? 家でごはん作ってあげる。」
「……それはありがたいけど、お前の負担になるだろ。」
「……橘くんって、そういうとこだよね。」
凛は少し笑った。
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帰り道の途中、智也がふと立ち止まった。
「……月、綺麗だな。」
凛も足を止めて空を見上げた。
雲の切れ間に、丸い月が顔を出していた。
「ほんとだ。」
しばらく二人で黙って空を見た。
風が冷たく、でも嫌じゃない時間だった。
「……またこうして、なんでもない時間が続くといいな。」
凛が小さく言った。
智也は横顔を見て、頷いた。
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浴衣姿の凛が、屋台のりんご飴を片手に振り返った。
「橘くん、こっち!」
人混みの中、少しはぐれそうになっていた智也は、凛の声に気づいて駆け寄った。
「悪い。」
「いいよ、私が勝手に先行ったから。」
屋台の灯りが、凛の頬を赤く染めた。
智也はりんご飴を見て苦笑した。
「似合うな。」
「え?」
「浴衣と、りんご飴。」
凛は照れて視線を逸らした。
「……ありがと。」
夜空に花火の音が響いた。二人は黙って見上げた。
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友人たちとカラオケに行った帰り道。
凛は小さく笑って智也を見た。
「橘くん、意外と歌うまかった。」
「人前で歌うの、10年ぶりだ。」
「また聞かせてよ。」
「……一人じゃ無理だな。」
「じゃあ、また一緒に行こうね。」
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夕方、落ち葉の積もった公園のベンチに並んで座る二人。
凛は手の中でホットの缶コーヒーを握っていた。
「冷えるね。」
「……ああ。」
凛が智也の横顔をちらっと見て、笑った。
「橘くんといると、寒いのにあんまり寒く感じない。不思議だね。」
智也は少しだけ頬を赤くし、視線を遠くに向けた。
「気のせいだろ。」
「気のせいかな。」
凛は微笑んだ。
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街の明かりの下で、白いものが舞った。
「……雪だ。」
凛の声に、智也も見上げた。
「今年は早いな。」
凛が両手を広げて、舞い落ちる雪を受け止めた。
「橘くんと見る初雪だ。覚えとこう。」
「雪が降った日、全部覚える気か?」
「特別だから覚えたいんだよ。」
智也はそれを聞いて、少しだけ優しい目をした。
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試験勉強の夜、智也のスマホが鳴った。
【凛】「まだ起きてる?」
【智也】「起きてる。お前も?」
【凛】「眠れなくて。」
【智也】「そりゃ明日テストだしな。」
【凛】「少し話してくれたら眠れそう。」
智也は少し笑って、通話ボタンを押した。
深夜の静けさの中で、二人は他愛ないことを少しだけ話した。
「……おやすみ。」
「おやすみ。」
その夜、凛はすぐに眠りについた。
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雨の夜、小さなラーメン屋のカウンター。
二人は黙って湯気の向こうで箸を動かしていた。
「……うまい。」
「ね。」
店の外で雨音が強くなった。
「橘くん、ラーメン食べるときだけすごい集中力だね。」
「他のこと考えたくなくなる。」
「……私と一緒のときもそう思ってくれてる?」
智也は少し固まった後、頷いた。
「……ああ。」
凛はそれだけで満足そうに微笑んだ。
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雨上がりの夜。
帰り道、二人で見上げた街灯の下の濡れたアスファルト。
凛が少し寒そうに肩をすくめる。
「……橘くん、傘ありがとう。」
「……気にすんな。」
「でも、私ばっかり守られてる。」
智也は歩を緩め、凛の横に立った。
「そんなつもりはない。」
凛がちらっと横を見て、静かに笑った。
「そういうとこ、好きだよ。」
その言葉に、智也の心臓が不意に強く打った。
胸の奥で、静かに火が灯るような感覚。
それは、ただの友達じゃなかった。
この声を、笑顔を、守りたいと本気で思った。
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大学のキャンパス。
智也が図書館でうとうとしているのを、凛はそっと眺めていた。
頬杖をついて眠りかける智也。
不器用で、でもいつも優しい智也の横顔。
(……なんだろう、この感じ。)
胸があたたかくて、苦しくて。
そっと机の下で手を握りしめた。
(好きだ……私、橘くんが好きなんだ。)
その瞬間、凛は自分の中の気持ちが恋だと、はっきりわかった。
ただそばにいるだけで嬉しい。声を聞くだけで安心する。
だからきっと、これが恋なんだと。
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秋の終わり、冷たい風が街を駆け抜ける夕方。
大学の帰り道、智也は少し先を歩く凛の後ろ姿を見つめていた。
ショルダーバッグが風に揺れ、髪が頬にかかる。
歩幅は小さいのに、必死で前を歩こうとしているみたいだった。
その後ろ姿が、なぜかやけに小さく見えた。
信号待ちの間、凛がふと振り返った。
「橘くん、寒くない?」
「……大丈夫だ。」
凛が安心したようにまた前を向く。
そして、智也はふと思った。
(もし、こいつがいなくなったら……俺は……)
胸がぐっと締めつけられた。
風の冷たさじゃない。そこにいない未来を想像するだけで、足元が崩れそうだった。
(……これが……)
ただの友達なら、こんなに苦しくなるはずがない。
ただの仲間なら、こんなに心が乱れるはずがない。
(……これが……俺の中で、凛が特別ってことなんだな。)
信号が青になった。
凛が小さく振り向いて、笑った。
「橘くん?」
智也は一歩足を出して、頷いた。
「……行こう。」
ただその笑顔を守りたい。
それだけが、胸の奥に強く灯っていた。