大学院で経験した日本史研究の大変さ
突然ですが、私はかつて大学院というところで、歴史研究なることをやった経験があります。
今はサラリーマンとして働いているので、学問的な知識は殆ど忘れてしまいましたし、院生時代を思い返してみるとつらい記憶ばかりが甦ってきます。
歴史研究などというのはどんなにコストを費やしても、一銭にもならないので、「そんなことやって何になるんだ」、「なんでそんな事してんの?」と家族友人から散々言われました。就活でも、院生は頭でっかちで扱いにくい奴、というイメージを払拭するのに苦労しました。
とはいえ、そんなにも世間離れした体験というのは、会社員になって思い返すとやっぱり懐かしくてたまらないものがあります。
懐かしさついでに、今回は少し私の経験した歴史研究での苦労話を書き起こしてみようと思います。
ところで読者の皆さんも、歴史学、歴史研究というようなアカデミックな領域は、得体の知れない世界かと思います。恐らく、歴史と聞くとテストの暗記科目というイメージを持つでしょうし、研究と言われても何をするのか見当もつかないという方が大半なように感じます。
読者の皆さんには、これから書く私の体験談が歴史研究について興味を持ってもらうきっかけになって貰えれば嬉しいです。
さて、まず私の研究テーマについてですが、明治から昭和初期にかけての日本史をやっていました。もう少し詳しく言うと、軍工廠における労使関係を研究していました。
そう言われても、一般の方にはマニアックすぎてよく分からないと思いますので、もっと簡単に説明します。
まず、軍工廠が何か分かりにくいと思います。軍工廠とは戦前、旧日本軍が経営していた軍事工場のことです。
例えば、軍艦を建造していた海軍の呉海軍工廠、小銃や弾薬を製造していた陸軍の東京砲兵工廠などが有名な工廠として挙げられます。呉工廠は呉軍港を舞台にした某アニメ映画にも登場してましたね。
こういう軍事工場の話になると、大抵は工場の生産物である軍艦とか大砲などの兵器を真っ先に思い浮かべると思いますが、私が注目したのは経営者である軍と工廠で働く労働者(「職工」とも呼称される)の関係、いわゆる労使関係についてでした。
軍が労働者をどのように管理・統制していたのかや、軍の秩序の中で労働者はどのように働いていたのか、というようなことを明らかにする研究です。
ちなみに、時間とお金をかけてまで大学院へ入り、そんな研究をした動機は、自分の趣味と真面目に向き合ってみたかったからです。
私はミリタリーオタクでしたが、オタクであることは周囲からよく馬鹿にされていました。そこで、まじめな結果を出せば、周囲を納得させられるのではないかと思い立ち、紆余曲折あって軍事工場の労使関係に注目したのでした。
そんなわけで研究テーマ自体、とても難しく、お堅い内容でしたが、研究をするうえで一番大きな困難となったのは、労働者について知ることでした。
私の研究では、工廠に勤務していた労働者の人口、さらに勤務者の年齢、勤続年数などの個人情報、労働者が工廠の勤務で得ていた収入などの情報を得る必要がありました。
こうした情報は労働者の文化や規範を分析するために不可欠だからです。
官営の工場なんだから、関連史料はたくさんあるだろうと、最初私は高をくくっていたのですが、それは大きな間違いだという事にすぐ気づかされました。
というのは、戦前の工場労働者について知れる統計データは全くと言っていいほど現存せず、現在でも彼らの生活、労働環境、経済状況、モチベーションの実態を明らかにすることは極めて困難だったからです。
例えば、国立国会図書館やアジア史料センターなどの史料のデータベースで検索すると、その工廠の就業規則とか社史が出てくることはあっても、前述した労働者の給料や人数に関する統計データが出てくることはまずありません。
研究対象地域の郷土資料館や公立図書館へ行っても、そうした情報が手にはいることは極めて稀でした。あったとしてもかなり断片的なものか、特定の時期のデータのみで、私は調査開始から早々に落胆した記憶があります。
とりわけ、日本の軍事産業が黎明期を迎えていた明治・大正時代については、全くと言っていいほどに現存する統計データが無く、例えば、この時期の横須賀、呉、舞鶴、佐世保にあった海軍工廠が、どのように労働者を集め、彼らを管理、統制していたのか、労働者の働き方はどのようなものであったのか、については謎が多いままであったりします。
数千人の規模を誇った工廠であったにも関わらずです。
このように工場労働者に関する史料が少ない理由には、三つほど理由があるように思います。
第一に工場労働者という、当時、社会の最下層にあった人々は、そもそも記録に残りにくい性格をしていることです。労働者は自分たちで自分たちのことをあまり記録に残そうとしませんしでしたし、戦前だと、政府や企業側も治安維持の観点からでしか工場労働者に興味を示さないことが多かったので、積極的かつ多角的に彼らのことを調査しようとしませんでした。
また、労働者の記録が取られても、身分の低い人々のデータは重要度が低いと見なされて破棄されてしまった事例も多いようです。
言い換えると、いつの時代でも民衆は歴史に残りにくいということだと思います。
これに対し、軍高官や技術者のような社会的エリートの場合だと、記録に残る可能性は高くなります。その証拠として比較的調べやすいです。軍の将校だと、人物辞典なんかもあったりするぐらいです。
そもそも国家エリートがよく属している官僚制度というのは記録の制度といっても過言ではないと思いますので、体制側の人間の情報は自然と何かしらの形で残りますし、それは法制度によって強固に保存される傾向が強いです。
もっとも、エリートの記録であっても戦争に負けて敗者になってしまうと、勝者によって徹底的に消されることもありますが。
第二に、太平洋戦争末期に軍事記録のほとんどは焼却処分されたためというのがあります。
1945年、戦況が絶望的となり、終末の様相を呈していた日本政府は、軍を含めたすべての公的機関へ軍事、兵事に関係する全ての文書を処分するように命令しましました。
政府のどこの機関が処分命令を発案、発令したのかについては未だに明らかにされていませんが、この時、8から9割近い軍事関連の文書が消滅し、工廠、軍事工場の内情を記録した多くのデータも失われてしまったと言われています。
第三に、終戦直後の混乱の中で国外へ持ち出されたためということがあります。例えば、戦前に海軍省によって作成された横須賀海軍工廠の経営史をまとめた本は、終戦後長らく行方不明となっていましたが、70年代にイギリスで発見されたりしています。
とにかく、工場労働者たちのまとまった記録、情報というのは無いのです。
しかし、研究史料が無くて困るという話は、歴史研究では当たり前なわけで、無いのなら探さなければなりません。
史料調査というやつです。
これは色々な意味で大変な事業です。
まず、毎朝9時から研究対象地の図書館や郷土資料館へ向かって、閉館時間まで全国紙、地方紙を漁り、欲しい情報が出てこないかと探す新聞調査。
次に、労働者の話が出てくることを期待して、軍の報告書や政府高官たちの会議議事録といった、膨大な公文書の読み込み。
次に、戦前から存続する神社やお寺、市役所を訪ねては「関連史料がありませんか」、「詳しい方をご存じありませんか」と聞いて回る聞き込み調査。
そうしたことを、何か月もかけてやることとなりました。
文書・新聞調査は地道で忍耐力を要すのは想像に難しくないと思いますが、もう一つ歴史調査の大変さとして指摘すべきことはお金がかかることです。
研究対象地が遠方だと交通費、宿泊費、食費がかかるうえに、図書館で分厚い文書を印刷しようとしたらプリント代も高くつきます。
研究費を確保するため、調査で横浜、長崎、広島などへ行った際も観光をしたことはありませんでしたし、食事はおにぎりとエナジードリンクで済ませて、史料収集だけして帰ってました。
そして一番つらいことは、それだけコストと労力をかけておきながら、何の収穫も無かった時です。
どんなに頑張って調べても、欲しい情報が必ず出てくるとは限らないんですよね。当たり前のことですが。
しかし論文には期限があります。期限内に終わらなければ卒業ができず、それまでの努力が水の泡になります。
しかし、これが中々見つからないんですよね。
私のやり方がまずかったこともあったのでしょうけど...
調査が進展しない日々が続いて、本当に論文を仕上げられるのかという不安に駆られた私は、眠れない日々を過ごした挙句、過度なストレスから入院し、ついには休学までしてしまったのでした。
こうなってくると自分が情けなく思えてきます。
さらに大きな課題となったのは研究と並行して就活もやらなければならないことでした。
両立しようと色々工夫しましたが、結局、就活中の研究は中断せざるを得ないこととなりました。
ただ、担当教授もその辺の事情は理解してくださり、「人生第一だから」と言って応援してくださったのは、心強い励みになりました。本当に頭が下がります。
他者からの支援という意味では、私は家族にも感謝しなければなりません。家族には就活と研究の行き詰まりでかなり迷惑をかけていたので、それは社会人として働くことで恩返ししていくところなのでしょう。
そんなこんなで研究生活が3年目に突入した際、ようやく史料収集に進展がありました。
研究対象にしていた工廠労働者の勤続年数や給料の長期的なデータを掲載した新聞記事を、戦前の地方紙で見つけることができたのです。
それは私が心から求めていた情報で、ようやく論文が執筆できるようになったのでした。
その後も、史料分析や論文執筆でつまづき続けたのですが、最終的に何とか論文は完成し、院を卒業することができました。
私の院での研究生活は大体こんな感じです。
とは言え、他の修士課程や博士課程の歴史研究者の研究生活と比べると、私の研究活動は苦労したうちに入らないと思います。
そもそも私は学者の道に進んでいないので、歴史学の本当の大変さを知りません。しかし、人生をかけなければ成果を出せない世界であることは確実に言えます。
歴史ネタは何かと喧嘩の火種になってあまり良いイメージが無かったりします。ただし、歴史研究者の血と汗の結晶が歴史教科書の内容であるということは皆さんには知ってもらいたいです。
ちなみに序盤の話に戻ると、修論を書いた後、私はオタクであることをバカにされることは少なくなりました。
その代わり、中途半端にアカデミックな知識を得たために、以前のようにミリタリーを楽しめなくなってしまった所があるので、これで良かったのかどうかはこれからの人生次第なのでしょうね。
今回の話は以上です。
ご精読頂きありがとうございました。