ver1(20230312)
「麻衣〜 耳かきしてよ〜」
康太と出会ったのはサークルの新歓で,彼は私にとって初めての恋人だった.一年先輩でいつも甘やかしてくれる彼であるが,日中嫌なことがあると決まってその夜に耳かきをせがんでくる.普段と立場が逆転するこの時間が嫌いでなかった.
「......今日 バイトの後輩がミスしちゃってさ 俺が代わりに謝ったんだよ 俺 教育係だったからそれは文句ないんだけど そいつが嫌な客でさ,俺のこと怒鳴ってきたんだよ しかも他のお客さんに聞こえるように罵倒してきてね,ほんとに最悪な雰囲気だったんだ.くつろいでたお客さんたちが気まずそうに出ていっちゃったよ.後輩は泣いて謝ってくるから許すしかないし,それに店長には 他のお客さんに迷惑がかかるだろ って怒られるし,最悪だよ......」
「それは嫌だったね.お客さんだからってどんな態度でも許されるわけじゃないのにね それにあなたの事を守ってくれない店長さんもヒドいと思う」
そう返しながら彼の頭を撫でる.引き締まった体と釣り合わない柔和な髪の触感を楽しみつつも,きちんと耳垢の処理をこなした.
「やっぱり麻衣に耳かきしてもらうと,嫌なこと忘れられるな」
......当然である 私が耳垢とともに辛い記憶を掻き出しているのだから.
心の擦り傷を取り除いた反動で胸の締め付けと耳の詰まりを感じていたが,彼のことを思って一生懸命耐えた.梵天で小さなチリを払ってから,フッっと息を吹きかけた.
「こっちの耳は綺麗になったから反対側見せて」
康太はその場で体を捻り,顔をこちらに向けて寝っ転がった.しかも距離が妙に近く,鼻先がほとんどお腹に触れている.腰元や太ももにまわした手つきも甘えているという感じではない.端的にいえば,誘っているのである.少し元気になった途端にそれか... そんな現金なところも嫌いではないが,こちらの耳も綺麗にしてしまうまでは体を許すわけにはいかない.
「もう 危ないからじっとしてて」
彼の頭の位置を調節して,耳穴の奥の方まで明かりが届くようにする.先ほどストレスを引き受けたおかげで彼の心身は緩み切っており,かなり奥の方まで触れられるようになっていた.私はそこに目的の記憶が付着しているのを見つけた.
「かなりこびり付いてるからちょっと痛いかも ごめんね」
この機を逃さないように私はその汚れにアクセスした.
「......悠を初めて見たのは県大会の会場でね,そう... ちょうど隣で女子の試合やってて俺 一目惚れしちゃってさ 居ても立ってもいられなくなって話しかけに行ったの 連絡先聞くまではよかったんだけど,ダブルスペアの子がやたらと首を突っ込んできてさ,悠ちゃんのことほんとに好きなの? 大事にするの?ってうるさくて,悠の幼馴染とか親友みたいなものらしいかったけど でも最終的には俺たちのこと応援してくれて,それで花火大会に呼び出して それで2人きりにしてくれて そこで告白したんだよなあ そういえば,はっきりと告ったのってあの時だけだなあ 多分.可愛かったな 悠の浴衣姿......」
私の下腹部に向かって過去の恋人のことを訥々と語り続けている.嫉妬に狂いそうになるのを必死で堪えながら,その要らない記憶を耳から引き剥がす作業に集中する.
「いま彼が愛してくれて.そして彼の最後の女になれるならば過去のことは気にならない」そう言ったのは別に強がりではないけれど,実際に彼の過去を消す手段があるのであれば消してしまいたいと思うのは自然なことだと思う.
「その時はたくさん思い出を作ったんだと思うけど,もうほとんど思い出せなくなっちゃったな」
彼の耳から掻き出したその耳垢は蛍光灯の灯りを反射して下品に輝いていた.私はそれをティッシュに包んでゴミ箱へ投げ入れた.