マルセルの章 ㉜ 君に伝えたかった言葉
「こんばんは。こんなところで会うなんて本当に偶然だね」
カイはにこやかに話しかけてきた。
「まぁ…本当に偶然ですわね。お1人でいらしていたのですか?」
「うん、1人で来ているんだよ」
「そうですか?もしよければ俺たちと一緒のテーブルに来ませんか?」
「いいのかい?お邪魔じゃないかな?」
「ええ、邪魔だなんてとんでもない。そうですよね?イングリット嬢」
「はい、勿論ですわ」
「それでは失礼しますね」
カイは嬉しそうに笑みを浮かべると俺たちのテーブルの椅子に座った。
「カイは良く1人でこの様なお店に来るのですか?」
「いや、滅多に無いよ。今夜ここに来たのは訳があるんだ」
カイはワインを飲みながら静かに言う。
「どんな訳なのか、もし宜しければ教えて頂けないでしょうか?」
イングリット嬢が尋ねた。
「うん、実はね…明後日、ついに『キーナ』へ旅立つことになったんだ」
「え?『キーナ』へ…?しかも明後日ですか?」
カイが『キーナ』へ行くことは聞いていたが、来月ではなかっただろうか?
「以前来月に『キーナ』へ行くと話しておりませんでしたか?」
「うん、そうだったけど…早めに行くことにしたんだよ。前倒しで早期入学者を募っている情報が入ってきてね、それで出発することにしたんだよ」
「あの…先程からお2人の会話の意味がよく分からないのですが…カイザード王太子様は何処か学校に入学されるのですか?」
事情を知らないイングリット嬢が質問してきた。
「そうか、イングリットさんは知らなかったね。実は僕は医者になるために医療大学に入学することにしたんだよ。王族の地位を手放してね」
「えっ?!そ、そうだったのですか…?まさか…それはアゼリア様の事がきっかけですか?」
「そうだよ、僕に医療の知識があれば…少しでもアゼリアの病気の治療をする上で役に立てたかもしれない…それが悔やまれてならないんだ。だから僕は医者を目指すことに決めたんだよ。アゼリアは救う事が出来なかったけど、まだまだ同じ病気で苦しんでいる人々が世界中にいる。僕はそんな人々の命を救えるような医者になりたいんだよ」
「まぁ…本当にカイザード様はご立派な方ですね。それだけアゼリア様の事を大切に思ってらしたのですね」
「…」
イングリット嬢の話を聞き、俺は何故か自分が酷く情けない人間に思えてきた。アゼリアは俺の婚約者だったのに…彼女の体調の異変にも気づく事も出来なかった。そして今もアゼリアの死を引きずり…カイのように前に進むことも出来ずにいる。しかも俺の父は…有能な医者だと言うのに…。
思わず神妙な面持ちで黙ってしまうと、イングリット嬢が声を掛けてきた。
「マルセル様?どうされたのですか?」
「いや…カイは立派な方だと思って…それなのに俺は…前に進むことも出来ずに…」
「マルセル様…」
するとカイが口を開いた。
「マルセルの父上は今や『キーナ』でも有名な医者になっていたよ。白血病の治療に心血を注ぐ医者としてね。君のお父さんはある意味僕の目標でもあるんだ。君はあの先生の血を引いているんだ。ひょっとしたら僕よりも医者に向いているかもしれないよ」
「え…?」
俺はカイの目を見た。その目は真剣だった。
俺が医者を目指す…?だが、俺はもうすぐ25歳になる。医者を目指すには少々遅い年齢では無いだろうか?
けれど…。
アゼリアを失ってから、心のどこかにいつもポカリと穴が開いている様な状態だった。言い訳かもしれないが、その穴を埋めるために毎晩仕事帰りにアルコールを飲んで自分を誤魔化していた。
そうだ。俺はずっと自分を責めていたんだ。何故アゼリアを助けられなかったのだと…。
失われたた命はもう二度と取り戻す事は出来ない。俺はアゼリアの死を無駄にしたくはなかった。
その為には…。
「カイ、俺も…医者を目指そうと思います。父やヨハン先生の様な医者になり…病気で苦しむ人達を助けたい」
「君ならそう言うと思っていたよ。実は明後日、僕が入学する大学の2次募集の面接試験が行われるんだ。その大学はね…面接試験で合否が決まるんだよ。どうする?」
「…受けます。試験を受けて…必ず合格して『キーナ』の大学へ通います」
「そうか…きっとマルセルなら合格出来るはずだよ」
カイは俺を見ると言った。
けれど…俺は全く気付いていなかった。
イングリット嬢が青ざめた顔で俺を見つめていたことを…。
彼女がその時、何を考えていたのかを―。