マルセルの章 ㉓ 君に伝えたかった言葉
「イ、イングリット嬢…な、何故ここに…?」
問いかける声が震えているのが自分でも分った。
「そんなのは決まっているじゃないですか。マルセル様の仕事が終わるのを待っていたのですよ。退社時刻は午後6時なのですよね?ブライアンからそう聞いていましたから」
「えっ?!ブライアンからっ?!ひょっとして彼と何か話をしたのですかっ?!」
するとイングリット嬢は少し目を伏せると言った。
「ええ…彼は会社を辞めたそうですね?お父様が危篤で…故郷へ帰ったと父から聞きました。事業を引き継がれるそうで…それで理解しました。ブライアンがやたらと私との結婚話を進めようとしていたのが。きっと…こうなることを想定済みだったのでしょうね?だけど‥私の為を思って身を引いてくれたのでしょうね」
その言い方に俺は苛立ちが募って来た。
「つまり、ブライアンは貴女が彼との結婚を拒んだから諦めざるを得なかったと言う訳ですね?」
「何を仰るの?確かにそれは要因の一つではありますが…彼との婚約解消に手を貸してくれたのはマルセル様、貴方ではありませんか?」
「何ですって…?」
一体彼女は何を言いたいのだ?
「それは一体…」
言いかけた時、イングリット嬢が口を開いた。
「そんな事よりも、馬車を待たせてあるのです。ご自宅まで送らせて頂きますからお乗り下さい」
「え?その為にここに来たのですか?」
「ええ、そうですけど」
良く見ると彼女の背後には立派な馬車が止っていた。そうか…あれはオルグレン家の馬車だったのか。
「さぁ、乗りましょう」
イングリット嬢が馬車の扉に手を掛けた。
「俺が開けますよ」
「え?ええ」
彼女の代わりに扉を開けて、手を差し伸べた。
「さ、どうぞ乗って下さい」
「…は、はい。有難うございます」
イングリット嬢は俺の手に自分の手を乗せると馬車に乗りこんだ。続いて俺も馬車に乗り、扉を閉めるとすぐに馬車は走り始めた。
「それにしても…一体何故、今夜は俺の迎えに来たのですか?」
昨夜母に今夜は何処にも寄らずに真っ直ぐ帰宅するように言われていただけに悪い予感しか無かった。するとイングリット嬢は首をかしげるように言った。
「その事なのですが…。あ、その前にまずはお礼を言わせて下さい。昨晩酔って眠ってしまった私をマルセル様が邸宅まで送って下さったそうですね?今朝自分のベッドで目覚めた時は本当に驚きました」
「え?結局朝まで目覚めなかったのですか?」
「ええ、そうなんですの。マルセル様と途中までお酒を飲んでいた記憶はあるのですが、その後の記憶はさっぱりで…」
「成程…」
そう言えば昨晩は見事な酔いっぷりだった…。その事を不意に思い出し…。
「クックックク…」
妙に面白くなり、肩を震わせて笑ってしまった。
「まぁ…何を笑ってらっしゃるの?」
イングリット嬢が睨み付ける様に俺を見た。
「い、いえ。昨晩貴女が泥酔してしまった時の様子が…フフッおかしくて…」
「な、何ですってっ?!私、一体どんな醜態をさらしてしまったのですかっ?!」
「い、いえ…醜態という程の物ではありませんでしたが…」
「もったい付けないで話して下さいっ!」
「え、ええ…。何と言うか…ろれつが回らなくて…うまく話せなくて…」
「ま、まぁ…な、何て事なの…」
イングリット嬢は顔を伏せてしまった。
「ですが…そんな姿は…何というか…うん、可愛らしかったですよ」
「え…?」
イングリット嬢が驚いたような目で俺を見つめた。
そう、俺も自分自身の台詞に驚いていた。
まさか…そんな言葉が自分の口から出て来るなんて…。
アゼリアにだってこんな台詞、一度も言ったことは無かったのに―。