エピローグ
プロローグの続きです
「俺はあの時と変わらず、今でもライラを大切に思っている。だから……」
彼は私を連れ去ったあの日から今まで、変わらぬ愛情を注いできてくれた。
おかげで私は平穏な生活を百年間も送ることができたので、とても感謝している。
私も彼に報いるため、与えられた長い一生を彼に捧げるつもりだ。
ノア様は私の頬に触れると、神秘的な顔を近づけてきた。
そして、唇同士が触れ合いそうになる寸前――。
私は彼の唇を、両手で塞いだ。
「ノア様、わたくしはまだ大切な言葉をいただいておりませんわ」
「…………」
重大な事実を隠したまま口づけをするなんて、とんでもない。
私が頬膨らませてノア様を見ると、形の良い彼の眉がへにゃりと曲がった。
彼の困り顔は本日二度目。
百年経っても、ノア様の不器用さは変わらない。
私の両腕を優しく掴み、ゆっくりと唇を開放させたノア様。離れがたいと言わんばかりに、そのまま指を絡ませてきた。
彼の想いの熱さが伝わってきて、私の心臓は忙しなく動いている。
「ノア様、わたくしの心はどうなっておりますの?」
「……熱い」
かつては『温かい』と表現されていた私の心。今は私がノア様から感じているように、ノア様に負けないくらい熱く彼を想っている自信はあった。
ノア様もそう感じてくれたのが嬉しくて、彼に微笑みかける。
「そろそろ教えてくださいませ。なぜあの日、わたくしを連れ去り、種を渡してくださいましたの?」
「……俺は精霊だから、人の感情には疎い部分がある。ライラさえ手に入れれば、すべてが上手くいくと思っていたんだ。だが、ライラに気持ちは伝わらなかった……」
ノア様はしょんぼりと私を見る。
「それは……。わたくしも勘違いをしてしまいましたが、まさか神様に望まれているとは思いませんでしたもの」
「何を言う。初めに俺へ好意を寄せてくれたのは、ライラのほうだろう」
「え……?」
ノア様と出会ったのは、あの日が初めてだったのに。
身に覚えのないことを言われ、私は首をかしげた。
「ライラは幼い頃から、俺のことばかり考えていた。いつも神話の本を抱えていただろう」
「ノア様のことは、憧れの精霊神様でしたもの……」
幼い頃の私といえば、お人形遊びよりも神話が好きで。機会を伺っては誰かに読んでもらおうと、いつも神話の本を抱えていたのは覚えている。
けれどそれは単純に、神話の中の神に対する憧れだった。
「俺に、好きの違いなどわからない。ライラはユリウスの子孫の中で、最も俺を信仰してくれた」
ノア様らしくもある、その考え方。
今までで最も信仰心があったのが私であることは、純粋に嬉しく思う。
自分の信仰心がまさか、このような結果になるとは思わなかったけれど、おかげで私にも大切な存在ができた。
お互いに勘違いのような感情から始まった関係だけれど、百年を経てお互いに想いあえる関係になれたはず。
けれど、ノア様の表情は沈んでしまう。
「だが人の感情は複雑であると、ライラやアウリスを通して痛いほど感じた。俺も一度の過ちでライラを失いたくないが、すでに過ちを犯してしまった後だ……」
「過ちとは……?」
アウリス様のように婚約破棄をしたわけでもないのに、ノア様は何を恐れているのだろう?
「種のことだ。ライラの気持ちを無視して、その……同種にしてしまった」
「もしかして……、それをずっと気にしていらっしゃいましたの?」
「あぁ。もし俺がライラを連れ去って種を飲ませなければ、ライラとアウリスは元の関係に戻っていたかもしれないだろう……」
そうは思えない。ノア様に守られていたからこそ、アウリス様とは家族と呼べるまでに関係が修復できたと思う。
私一人だったら、妊娠して幸せそうなオルガお姉様と、それでも私に好意を寄せるアウリス様の間で耐えられなかったはず。
「わたくしは、ノア様に連れ去られて良かったと思っておりますわ。種の真相を知った時は驚きましたけれど、あの時はすでにわたくしの心はノア様と同じだったと思いたいですわ」
「……俺を許してくれるのか?」
「許すもなにも、わたくしも勘違いしてしまったのですし、ノア様の過ちではありませんわ」
そう伝えると、ノア様は思い切り私を抱きしめる。
「よかった……。俺はライラを失わずにすむのか?」
「もちろんですわ」
これまでにないほどの彼の気持ちが熱さとして伝わってきて、彼の腕の中で私は茹で上がってしまいそう。
見上げてみると、彼の頬もほんのり赤くなっている。
その麗しくも可愛く思えるノア様の顔が、再び接近してきたので私は大いに慌てた。
「ノア様、お待ちくださいませ! まだお言葉を聞いておりませんわ!」
「ライラ……、そろそろ空気を読むことを覚えたらどうだ?」
「わたくしは貴族ですもの……、それ相応の言葉と手順が必要ですの!」
アウリス様はいつも言葉にしてくれ、未来の計画を立ててくれた。実のところ、他の貴族の事情は知らないけれど、王子だったアウリス様の作法が最も正しいはず。
「俺が聞いた作法と違う……」
「え?」
「俺はユリウスの娘から、はっきりと言葉にせず行動で示すのが流行だと聞いた」
「ノア様……、そちらは何百年前の流行ですの?」
「今は違うのか……?」
真剣に聞き返してくるノア様がおかしくて、私は思わずくすりと微笑んだ。
「流行とは移り変わるものですわ。きっと、わたくしの作法が今の流行だと思いますの」
「ライラの知識は、アウリスから得たものだろう。あいつは特殊な部類だと思うが……」
そう指摘されてしまうと、少し自信がない。
「どうしましょう……。今の時代に合った作法がわかりませんわ……」
ノア様とはこれから何千年も一緒に過ごすのに、古い作法だったと何千年も悔やみたくない。
困りながらノア様を見ると、彼は意外にも自信があるように微笑む。
「俺は神で、ライラは俺の隣に並び立つ存在だ。人間の作法などいちいち気にする必要もないだろう。俺は、俺の思うままにライラへ気持ちを伝えるので、ライラも自分自身の望む通りに返してくれ」
「神らしい堂々としたご判断ですわ。わたくしもノア様にならわせていただきますわね」
子供っぽい部分も多いノア様だけれど、彼は時たま驚くほど頼りになる。
彼はどのような方法で気持ちを伝えてくれるのだろう。
再び胸の高鳴りを感じながら、ノア様を見つめていると、無言で彼の顔が近づいてくる。
彼の意図に気がついた時には、すでに手遅れ。
私の唇に触れたノア様の唇は、たとえようもないほど柔らかく。
優しく食まれるたびに、唇が溶けてしまいそうな感覚になる。
それは一瞬だったのか、長かったのか。
時間の感覚すらよくわからなくなってしまったけれど、唇が離れるとノア様は「ん?」と催促するように微笑む。
私はそこで、はっと我に返った。
「ノア様……、ずるいですわ」
「俺も無駄に歳を取っているわけではないからな。それより、早くライラの気持ちを聞かせてくれ」
完全に勝者の顔をしているノア様。五十年近くもこの日を待ち望んできたのに、彼に完全にしてやられてしまった。
けれど先ほどの口づけは、彼の想いがたっぷりと込められているようで、幸せな気持ちになれた。
いつも温かく包み込んでくれる、彼そのもの。
彼はいつも、間接的な言葉と態度で愛情を示してきてくれた。
それがどれだけ私に安心と、安らぎと、幸せを与えてくれたことか。
ノア様から直接的な言葉が聞きたかったけれど、彼の気持ちはじゅうぶんに受け取ってしまったので仕方がない。
「大好きですわ」
短くそう伝えると、彼は幸せそうに微笑んだ。
「俺も同じ気持ちだ」
彼は再び唇を重ねてくる。
結局『好き』という言葉は聞けなかったけれど、二度目の口づけは言葉では表現し難いほど情熱的なものだった。
この百年間、彼は何だかんだと直接的な言葉を避けてきたけれど、それは流行を重視していただけではないように思える。
ノア様は、割と恥ずかしがり屋だ。単純に恥ずかしくて、流行を取り入れていたのではないかと。
けれど、私は諦めない。
いつか必ずノア様から『好き』という言葉を引き出したい。
私は心の中で決意しながら、ノア様に微笑みかけた。
すると、ノア様は気まずそうに視線をそらす。
そして、一言。
「あと百年くらい待ってくれないか……」
いくらでも待ちますとも。私達は無限にも思えるほどの時間があるのだから。
こちらで本編完結となります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!





