89 ノアの結界6
アウリスに命令するなんて心が痛むけれど、今の彼には最も有効なはず。神と同等の存在に勝利を所望されれば、是が非でも頑張るしかないだろう。
最後の一言は余計だったかなと思いつつもアウリスを見つめると、彼はゆっくりと花が咲くように笑顔になっていく。
「私としたことが罪の重さに耐えきれず、国を思う心を忘れておりました。帝国に支配されてしまえば、国民は悲しみます。戦をここで食止め、必ずや勝利へと導くとお約束いたしましょう」
「えぇ。期待しておりますわ」
ライラがにこりと微笑むと、アウリスは真剣な表情をライラに返してくる。
「開戦の前に、ライラ様に一つお願いがございます」
「何かしら?」
「私には現在、愛する者がおりません。ですので国を見守ってくださるライラ様へ、誓いを立てる名誉を私にお与えくださりませんか」
この国では、戦に向かう騎士が愛する者に「必ず帰ってくる」と、手の甲に口づけして誓いを立てるそうだ。
今となっては物語の世界の話だけれど、今回はここにいる騎士や兵士達もそのような誓いを立ててきたのかもしれない。
「えぇ。軍を代表して誓ってくださいませ。必ず帰ってくると」
それでアウリスのやる気が増すのならば、いくらでも手の甲を差し出そう。
そう思いながら右手を差し出そうとしたが――、突然にライラは後ろへ抱き寄せられる。
「早まるなライラ。この戦は俺が片付けると言っただろう。アウリスの出番はない」
驚いて見上げると、ノアは不満そうな顔を浮かべている。
そして彼はライラの手を掴むと、自らの唇にライラの手の甲を触れさせた。
これでは誓いを立てるのではなく、ただ単に口づけしたかったようにしか見えない。ライラの顔は一気に、イチゴのごとく赤くなる。
「のっ……ノア様! 放してくださいませ!」
「アウリスは良くて、俺は駄目なのか……」
「そういう意味ではございませんわ! 恥ずかしいので放してくださいませ……」
「アウリスは恥ずかしくなくて、俺だと恥ずかしいのか?」
単なる儀式と、好きな人にされるのでは意味合いが違いすぎる。
それよりも真面目な顔で、しかも手の甲に口づけしたままで話さないでほしい。
ノアが話すたびに、手の甲の感覚がおかしくなりそう。
「そっそれよりも、アウリス様の出番がないとはどういうことですの? いくらなんでもノア様お一人であの人数を相手するのは……」
そう尋ねると、ノアはやっとライラの手の甲を開放してくれた。
ライラは手の甲を正常に戻すため左手で包み込みながら、帝国軍へと視線を向ける。王宮の庭よりも遥かに広い範囲には、整然と帝国軍が隊列を組んでいるのが見える。いったい、何千人いるのだろう。
「俺一人で問題ない。――アウリス、兵を後退させて俺への祈りを捧げさせてくれ。少々、大掛かりなことをするので少しでも力が欲しい」
「精霊神様お一人にお任せすることなどできません! 我が軍も共に戦わせてください!」
状況を飲み込め切れていない様子のアウリスは、それでも自分の役目を果たそうと必死な表情になる。
「下手に巻き込んだら、取り出すのが面倒だ。それよりも俺に力をくれ」
(取り出す?)
ノアは何をする気なのだろうとライラは首を傾げたが、その向かい側ではアウリスが納得できない様子で「しかし……」と呟いた。
「今回の戦は、俺が招いた事態だ。自分の不始末は、自分でけじめをつけたいものだろう?」
意味ありげにノアが微笑むと「そのお気持ちは、わかります」とアウリスは実感するように苦笑する。
それからアウリスは、了承するように一礼をすると馬に騎乗した。
補佐達の元へ戻ったアウリスは、マキラ公爵に微笑みかけてから、馬を寄せて耳打ちをする。
「精霊神様が帝国軍を討伐してくださるそうです。邪魔にならない距離まで兵を後退させてから、精霊神様への祈りを捧げるよう指示してください」
「それは心強い、かしこまりました。殿下は?」
「俺はここに残って成り行きを見守ります。兵達をよろしくおねがいします、マキラ公爵」
力強くうなずいたマキラ公爵は部下に視線を移動させると、シーグヴァルド達にも聞こえるような大きな声を張り上げた。
「我が軍は後退する! 合図を!」
「ハッ!」
旗を持っている部下が大きく後退の合図を送ると、マキラ公爵はそのまま部下を引き連れて兵士達の元へと馬を走らせた。
それを見届けたアウリスが帝国軍側へと向き直ると、面白そうな顔でアウリスを見つめているシーグヴァルドと目が合う。
「もしかして、戦う前から敗北宣言? 俺はそれでも構わないけど。それとも軟弱なこの国は、精霊神に全てを丸投げしたのかな?」
シーグヴァルドの挑発に、アウリスはにこりと微笑むだけにとどめた。
そこへライラを抱きかかえたノアが、空中に浮かびながら近づいてくる。
「今回の件は、俺の問題だ。お前らの相手は俺がしよう」
「へー。歴代の皇帝が勝てなかった精霊神と、一戦交えることができるなんて光栄だ。けれど、良いの? 精霊神は人を傷つけることができないのでしょう?」





