87 ノアの結界4
「今のは全然、責めてませんけど……」
オリヴェルが困ったように返すも、ノアは聞いていない様子で気だるそうに上半身を起こそうとしている。
ライラはそれを手助けしながら、ノアの顔をのぞきこんだ。
「ノア様のお目覚めを、皆様とお待ちしておりましたわ。ご体調はいかがですの?」
やっとノアが目覚めてくれた。ほっと安心をしながらそう尋ねると、ノアは周りにいる聖職者や精霊達を見回した。
「最悪だ……。俺とライラだけの住まいに、なぜこいつらがいるんだ……」
ノアとしては体調よりも、そちらのほうが気になるようだ。
しかし彼は、すぐに状況を理解したように表情が険しくなると、信じられないと言いたげに自分自身の両手を見つめた。
「……結界が、全て消えている。ユリウスとの約束を守れなかった……」
約束を破ってしまったことへの罪悪感なのか、ノアは震え出した。
すると、神殿の窓ガラスがガタガタと揺れ始め、雷鳴と共に大粒の雨が降り出す。
ノアの感情による異常気象は久しぶりだ。いや、ライラが久しぶりなだけでノアはこの一年間、こうして力を使い続けていたのかもしれない。
(やっとお力が戻ったみたいなのに……)
これまでノアがユリウス王子との約束を最も大切にしてきたことは、ライラも強く感じていた。
それが契約によるものなのか、それとも単にユリウス王子を大切にしていたからなのか。口下手なノアから、詳しい事情を聞き出すのは難しい。けれど、ノアにとってユリウス王子が特別なことには変わりない。
せめてノアの震えだけでも止めたいと思ったライラは、膝立ちになりノアの頭を抱きしめた。
「誰しも、完璧を維持し続けることなどできませんわ。ノア様は何百年にも渡り国を守ってきてくださったのですもの、ユリウス王子もご理解くださりますわ」
「ライラ……、本当か? ユリウスは怒っていないだろうか……」
「怒るはずがありませんわ。ユリウス王子はこれからも、ノア様を見守り続けてくださいますわ」
異空間で読んだ神話の原本は、初めこそ神話のように書かれていたけれど、途中からはユリウス王子の日記のようになっていた。
着実に歳を重ねるユリウス王子と、時が止まったように子供っぽさが抜けないノア。次第に王子の中で、ノアは息子のような存在になっていたようだ。
原本の最後のほうでは、ノアを置いてこの世を去ることへの心配が綴られていた。
『どうか僕の子孫達も、ノアが神であり続けられるよう見守ってほしい』と。
そんな心配をしていたユリウス王子が、やむを得ず約束を守れなかったことについて怒るとは思えない。
ノアの頭をなでると、彼はライラをぎゅっと抱きしめた。
「……そうだな。ユリウスはむやみに怒るような奴ではなかった」
「安心してくださいまして?」
「あぁ。……もう少しこうしていたいが、まだ挽回する余裕はあるようだ」
「余裕とは……?」
「帝国が攻めてきたのだろう? 戦はまだ始まっていない」
神ともなれば、遠くの出来事も知ることができるようだ。
ノアは急に元気が出たような様子でライラを抱えながら立ち上がると、オリヴェル達を見下ろす。
「今回は俺の失敗が招いたことだ。人間には悪いが、俺が後始末する。国王には勝利の報告でもしておけ」
「えっ。そんな約束をしてしまって、大丈夫なんですか?」
「俺に不可能があるとでも?」
「いやぁ……、異空間に入れなかった神様に言われましても……」
「……あれは特殊な例だ。いいから、さっさと神殿から出ていけ」
久しぶりに見る二人のじゃれ合い。ノアの調子も戻ってきたようだとライラが安心をしていると、オリヴェルはやれやれと言いたげに立ち上がった。
「わかりました。お望み通り、邪魔者は愛の巣から出ていきますよ」
「おっ……オリヴェル様ぁ!?」
ライラが慌てて叫んだ瞬間――、景色は屋外へと切り替わった。
「どうしたライラ? 顔が赤いぞ」
「何でもありませんわ……」
オリヴェルはライラの気持ちを知っているというのに、堂々とノアの前であんなことを言うなんて。
恥ずかしさで顔から火が出そうだけれど、ノアがまったく気にしていないのも少し残念。
複雑な乙女心を収めようとしていると、ノアが足元へと視線を向けた。
「ライラ、下を見てみろ」
「え?」
下に視線を向けたライラは、思わず息を呑んだ。
実際に来たことはないけれど、地形から西の平原だと推測できる。そこにおびただしい数の兵士が、東西に分かれて集結していた。
兵士の数は、この国のほうが帝国の三倍ほど多いけれど、帝国の兵士は魔獣に騎乗している者が多い。
仮に三人がかりで魔獣に挑んだとして、この国の兵士は勝つことができるのだろうか。
「降りるぞ」
「はいっ!」
ノアはゆっくりと降下しながら淡い光を放ち始めた。これは幻術魔法。ライラにはノアの姿は見えているけれど、他の者の目には光の玉にしか見えていないという。
きっと今のライラは、光の玉の中に浮かんでいるように見えているだろう。
降下していくうちに、平原全体が騒がしくなってきた。
お互いの軍の間、つまりこの戦場の中央には、軍を率いている者同士が顔を合わせているのが見える。
その者達も、ライラとノアに気がついて顔を上げた。
ライラはその顔ぶれに驚いて、目を見開いた。
(アウリス様……と、……シグ!?)





