07 ノアの神殿2
「のっ……ノア様、まだお祈りは終わっておりませんわ……」
「このままでも祈れるだろう?」
「祈れますが……」
(そのように抱きつかれてしまうと、お祈りに集中できませんわ……)
「祈りの言葉など間違ってもよい。俺のことで頭の中を埋めてくれ」
「はい……」
言われなくとも抱きつかれている上に、ノアの想いの熱さが感覚として伝わってくる。
どう気を逸らそうとしても、ノアのこと以外は考えられない。
ライラはこれまで何千回と神への祈りをおこなってきたというのに、まるで覚えたての幼い頃に戻ったかのようにたどたどしくなってしまった。
ライラはなんとか祈りを捧げ終えて、ほうっと息をついた。
ノアの顔色を確認してみると、気分の良さそうな彼と目が合う。
「回復されまして? ノア様」
「あぁ。ライラの祈りはとても心地よかったよ」
「良かったですわ」
本当にライラのお祈りでノアが回復するようだ。ライラは自分達の信仰心が、実際にノアの役に立っていたことがこの上なく嬉しい。
にこりと微笑むと、ノアも嬉しそうに微笑みながらライラを抱きしめ直した。
それからしばらく――
なぜか、一向に離れる気配がないノア。
「あの……、回復されたのでしたらそろそろ離れていただけませんこと?」
「……もう少し、こうしていたい」
甘えるように囁くノア。
元婚約者のアウリスにさえ、これほど長く抱きしめられたことはないというのに。ライラは恥ずかしさの限界に達した。
「もっ……もう! 離れてくださいませ!」
思わずノアを突き飛ばしてしまうと、彼は恨めしそうにライラを見つめる。
「ライラが冷たい……」
「つっ……冷たくありませんわ! ずっとわたくしの回復をされていたのですもの、お仕事が溜まっていらっしゃるのではなくて?」
「仕事などないが?」
「え……?」
「魔獣から国を守る結界さえ維持していれば、特にしなければならない仕事はない。強いて言えば、国王の代替わりの際に加護を授けてやるくらいか」
「では、わたくしのお仕事は?」
「ないな」
即答され、ライラは絶句した。
これからはノアのために誠心誠意働こうと思っていたのに。自分がノアの元にいてもよい理由が、あっさりと消えてしまった。
「そんな……。従者としてのお仕事がないのでしたら、わたくしはこちらから出ていかなければなりませんわ……」
「あ……いや、待て! ライラの仕事は作ろう、朝と夜に俺への祈りを捧げてくれ」
「……それは今までも、していたことですわ」
「他にもあるぞ……、そうだな……」
しょんぼりとするライラに焦ったノア。何かないかとノアは辺りを見回したが、神殿の現状を目にしてさらに焦りが募る。
改めて見た神殿内は、ライラと住むにはあまりに汚れていた。
ノアしか入ることができなかった神殿なので虫などは入り込んでいないが、長年の塵や埃が床にびっしりと溜まっている。
神殿内での彼の居場所は魔法陣の上だったので、今も座っているここだけは綺麗だが。
「ライラには……、神殿の掃除を頼む……」
仕事らしい仕事を与えられたライラはぱぁっと表情が明るくなったが、改めて辺りを見回してその表情はすぐに曇った。
「ノア様……、いつからお掃除をしておりませんの?」
「一度も……」
それからノアは、神殿内を一通り案内してくれた。
汚れるからとノアに抱きかかえられたライラは、今更ながら自分が寝間着姿であることを思い出した。
靴もないので、仕事を始める前に一通り調達する必要があるが。
(公爵邸へは戻れないわよね……)
ライラはお金を持ち合わせていないし、神であるノアも持っているとは思えない。
どうやら原始的な生活を始めることになりそうだと、ライラは覚悟した。
神殿内は、思いのほかシンプルな作りだった。大部分は魔法陣が設置されていた広い儀式場で、その手前に神殿の管理者が常駐するための部屋などがいくつかあるだけ。
しかし部屋にある家具はどれも朽ち果てており、長年にわたり誰も出入りしていないことを裏付けていた。
「ノア様はずっとお一人で住まわれていましたの?」
「あぁ。人間は俺の世話をしたがったが、面倒なので俺以外は入れないように結界を張った」
「ノア様以外ということは、他の精霊も入れませんの?」
「そうだ」
しかしライラはここに入れた。
種を飲んだことで『精霊』と同等の存在になったと思っていたけれど、どうやら『精霊神』と同等の存在になってしまったようだ。
ノアが説明した際には精霊になるわけではないと言っていたので、同様に神になったわけではないはず。
けれど、『同等の存在』の範囲がどこまでを指すのかがよくわからない。
ノアの説明では全てを理解できそうにないので、ライラ自身が一つ一つ確認をするしかないようだ。
ライラは手始めに、自分の背中に羽が生えていないか確認をしようとした。
一生懸命後ろに視線を向けてみたが、視界に羽は見当たらない。
精霊になったわけではないので、羽は生えないようだ。
しかし、ライラの肩に見慣れぬものが――
ベッドで寝たきり状態だったライラは、いつも髪の毛を一本に三つ編みしていたが、その三つ編みがどういうわけかノア様と同じ色に変わっている。
「あの……、こちらはわたくしの髪の毛ですわよね?」
一応確認をしながら三つ編みを手に取り軽く引っ張ってみると、確かに自分の頭と繋がっている感触がある。
「……言い忘れていた。種を飲むと髪の毛と瞳の色が俺と同じになるんだ」
「え!?」
「……嫌だったか?」
申し訳なさそうな顔のノアを見て、彼は相当の口下手だとライラは理解した。
改めて自分の髪の毛に視線を向けたライラ。
人間では決してあり得ない髪色は、ライラの好きな神話の世界へと入り込んだような気分にさせてくれる。
それに――
(アウリス様とは違う色になったわ……)
もう鏡を見ても、アウリスを思い出さずに済む。
元婚約者との共通点が一つ減り、ライラは少し気が楽になった。
「いいえ、素敵な色ですもの。嬉しいですわ」
ライラがそう微笑むと、愛おしそうにライラの頭に頬ずりをしたノア。
「これからは俺だけを見――」と言いかけたところで、「ぐうううううう」という音か辺りになり響いた。
「ノア様……、お腹が空きましたわ……」
顔を真っ赤にさせてうつむいたライラ。
彼女は公爵令嬢でありながらも、この半年ほどでこれが空腹による音だと理解していた。
空腹でありながらも、今までは叔母によって食欲を妨げられていたが、今なら食べられる気がする。
「そういえば人間は食事が必要だったな。まずは腹ごしらえにでも行こうか」