78 ノアの力10
まるで宝物でも扱うかのように、アウリスは優しくライラの頬に触れた。
けれどその動作とは正反対に、彼の左腕はしっかりとライラの腰を押さえつけている。
ライラの心には再び不安感が戻ってくる。先ほどからアウリスの言動は、違和感だらけだ。
「……わたくしは、今の生活でじゅうぶんに幸せですわ」
「本当にそうかな? 神話目録を読んだライラは、お世辞にも幸せそうには見えなかったけれど」
「それは……」
目録に書かれていた内容を思い出して、ライラは自然と視線が下がる。
「そんな気持ちを抱えて、精霊神様と暮らすのは辛いだろう? 俺が精霊神様のことなんて忘れさせてあげるから」
ノアが伴侶を求めていると知り、悲しかったのは事実。
けれどノアは命の恩人であり、ライラはあの日、ノアの従者になろうと決意した。自分の一方的な気持ちで、ノアの信頼を失いたくない。
それよりもなぜ、アウリスは言葉巧みにライラを惑わそうとするのか。
(裏切ったのはアウリス様なのよ……)
こんな気持ちを抱えたくないけれど、アウリスがライラを求めれば求めるほど心が重くなる。
彼の言動には、様々な理由をつけて割り切ってきたというのに、これ以上かき乱さないでほしい。
ライラの心は限界にきていた。ずっと秘めていた気持ちが溢れ出してくる。
「オルガお義姉様を選んでおきながら、わたくしにも好意を寄せるなんて不誠実ですわ……。 お義姉様が他の方と結婚したからといって、わたくしを代わりにするのはやめてくださいませ……」
公爵家存続のためにと、公爵夫人としての役目をこれまで代行してきた。
けれど、それは公爵令嬢としての責務だと思っていたから。妻の代わりになると言った覚えはない。
「……違う」
ライラの視線を受け止めたアウリスは、小さく呟いた。
それから彼は、力が抜けたようにライラから手を離す。
まるで、この世の終わりがきて絶望しているかのような表情。
なぜそんな態度になるのかと思っていると、アウリスは言葉を続ける。
「俺は、ライラ以外の女性を愛したことなどないよ……」
「……え」
「オルガとは、一度だけの過ちに過ぎない。彼女を愛したことなど一度もないんだ」
思いも寄らなかった告白に、ライラは言葉を失った。
ただ見つめることしかできないライラを見て、アウリスは自嘲するように微笑む。
「ライラの言う通り、俺は不誠実だね。愛してもいない女性を抱くなんて、幻滅した?」
「……どうして。そのような行為は、アウリス様らしくありませんわ……」
これも自分の理想を押し付けているのかもしれない。けれど、婚約者として常に誠実だった彼とは思えない行為だ。
「ライラが衰弱していく姿を見るのが辛かったんだ。一瞬だけでも忘れていたくて、オルガの慰めに乗ってしまった……」
(わたくしが原因で……)
あの頃のアウリスは本当に辛そうだったのを覚えている。ライラでは彼を笑顔にできなくて、もどかしく感じていたことも。
あの頃の彼が、そのような方法で気を紛らさせていたとは思いもしなかった。
「わたくしが、アウリス様を追い詰めてしまいましたのね……」
「ライラは毒を飲まされた被害者だよ。これは心が弱い、俺の罪なんだ」
「アウリス様……」
彼の過ちは赦されるべきなのか、恋愛経験に乏しいライラにはわからない。
けれどライラが毒を飲まされなければ、このような結果にはならなかった。それがどうしようもなく悲しい。
「話すつもりはなかったんだけど、ライラに誤解されたままは辛い……。俺が愛しているのは、ずっとライラだけだよ」
「……先ほどは少し、言い過ぎましたわ。ごめんなさい、アウリス様」
彼の心変わりでオルガを選んだのだと思っていたけれど、彼はずっと変わらずにライラを愛してくれていた。
二人の女性の間をふらふらするような、不誠実な人ではなかったのだ。
ライラが知っているアウリスのままだったことにほっとしつつも、同時に自分のノアへの気持ちを考えると複雑な気分になる。
先に心変わりをしたのは、ライラだったのだから……。
「俺の気持ちを理解してもらえただけでも嬉しいよ」
そう微笑んだアウリスは、ライラの両手を取って続ける。
「もう二度と間違わないと誓うから、俺の元へ戻ってきておくれ」
「……それはできませんわ」
「なぜ?」
アウリスの声が急に低くなるが、顔は微笑んだままで首を傾げる。
その対比が怖くて、ライラは足を一歩後ろに下げる。しかし、アウリスも詰め寄ってくる。
「……ノア様への気持ちを、簡単には変えられませんもの」
小さな家だ、三歩下がったところで踵に玄関扉が当たった。
「俺への気持ちは簡単に変えたのに?」
アウリスはライラの両手首を扉に縫い留め、ライラは完全に逃げ場を封じられてしまった。
「アウリス様とは状況が違いますわ……」
「何も違わないよ。ライラは、溺愛してくれる精霊神様がライラを伴侶にするつもりがないと知って、悲しかったんだろう。裏切られたような気持ちだったんじゃないのかい?」
「そのようなことは……」
期待を裏切られたという気持ちが、全くないかと言われたら自信がない。
けれどノアは、ライラのことを『大切な存在』としか言っていない。
これはライラの一方的な感情であり、ノアがライラを裏切った事実などないのだ。
「ライラは、俺と精霊神様に対して同じような悲しみを覚えたはずだよ。それなのに俺への気持ちは変えられても、精霊神様への気持ちは変えられないの?」
「アウリス様、もう止めてくださいませ……」
「ねぇ、教えてよ。俺に足りない部分があるなら、努力して補うから」
アウリスは憂いに満ちた表情で、ライラに顔を近づけてくる。
どうして彼はこんなにも、自分自身を追い詰めるようなことをするのだろう。
勘の鋭いアウリスなら、とっくに気がついているはずなのに。
アウリスとライラは、親同士が決めた婚約者同士。
幼い頃に芽生えたライラの恋心は、家族愛と区別のつかないようなものだったように感じる。
けれどノアを想う気持ちは違う。
婚約者という枠に囚われない状況で、初めて好きだと感じた相手――





