74 ノアの力6
両親の痕跡がないかと辺りを見回したライラは、壁に貼られている絵に気がついた。
白い画用紙に描かれているのは、辛うじて男女と認識できる程度の人物画。これはライラが幼い頃に描いた、両親の似顔絵だ。
アウリスと婚約して間もない頃だったので、五歳か六歳頃だろう。色はアウリスが絵具で塗ってくれたので、幼い画力の割に整った完成度となっている。
「お父様とお母様ったら、こんなところに隠していたなんて……」
「懐かしいね、この絵は俺も覚えているよ。ライラの両親がすごく喜んでいたよね」
昔を思い出すように微笑むアウリス。
しかし、このままずるずると楽しかった過去を思い出したくないライラは、似顔絵から視線をそらしてしまった。
何となく気まずさを感じたライラだったけれど、アウリスは特に何か感じている様子もなく、ライラから離れて戸棚を物色し始める。
(アウリス様はもう、わたくしのことを義妹としてしか見ていないのだわ)
彼の素っ気なさから安心感を得ていると、アウリスは振り返って嬉しそうに微笑んだ。
「ライラ、来てごらん。原本らしき本があったよ」
「まぁ! 見せてくださいませ!」
アウリスの元へ駆け寄ると、彼は丁寧な仕草でライラに神話の原本を手渡してくれた。
表紙には『ノアの神話』と書かれている。
綺麗に製本されていた複製品とは違い、紙を束ねて紐で綴っただけの原本。子孫達によって何度も読み返されたためか、紙の端が劣化している。
幼い頃からいつか読みたいと思っていた原本を、この手に触れることができた。
ライラは嬉しさのあまり、原本をぎゅっと抱きしめる。古い本の香りが心地よい。
「時間はまだまだあるから、ゆっくりお読みよ。俺は近くを散策しているね」
「ありがとうございます。お義兄様もお気をつけてくださいませ」
「うん。あまり遠くへは行かないから心配しないで」
読書の邪魔はしないとばかりに、さっさと家を出ていくアウリス。
ノアは心配していたけれど、アウリスは純粋にライラに読書をさせようと連れて来てくれたようだ。
義兄の心遣いに感謝しつつ、ライラはソファーに腰を下ろした。
(あっ、ここにもあるわ)
テーブルの上には砂時計が置かれている。父の隠し部屋同様に、この空間でも時間の感覚がなくなってしまうようだ。
ライラはいくつか置かれている砂時計から六時間の砂時計を手に取り、逆さまにして置きなおした。
(さぁ、読みますわよ!)
お茶やお菓子の準備もしたいところだけれど、まずは読みたくて仕方ないライラ。
古い紙の感触を味わいつつ原本を開いてみると、初めに出てきた話は生贄となったユリウス王子とその妻マイラの話だった。
当時五歳だったユリウス王子は、マイラが魔獣に襲われそうになるところをかばい、大怪我を負うところから物語は始まる。
幼い二人は共に、外へは出られなくなるほどの恐怖心を植え付けられてしまった。
ユリウス王子は魔獣のいない国を願い、生贄となることを決心してノアと出会う。
ノアと友人になったユリウス王子は、ノアから魔法を習い、マイラに会いに行く勇気を得るというお話。
神話にも載っているけれど、ノアの言った通りに原本はより詳しく書かれている。
ライラは自分の知っている神話を補完するように、夢中で原本を読み進めた。
神になったばかりのノアは、まるで幼子のように自由奔放だったようだ。
魔法を教える以外では、ユリウス王子のほうが兄に見えるエピソードばかり。
微笑ましく思いつつも、ノアが知られたくなかった気持ちや、神話の複製品から削除された理由にも頷ける。
ノアのいじけ癖は昔からだったのだと、ライラが思わず「ふふ」っと声に出して微笑んでいると、がちゃりと玄関のドアが開いた。
「楽しそうだね、ライラ。読書は進んでいる?」
「とても楽しませてもらっておりますわ。お義兄様、そちらは?」
アウリスはハンカチを広げた中に、イチゴを溢れるほど抱えて持っている。
ライラは思わず目が釘づけになってしまった。
そんなライラの視線を受けて、アウリスはくすりと笑う。
「近くに果物が植わっている場所があってね。お昼にでも一緒に食べようかと思って」
「まぁ! 嬉しいですわ。ありがとうございます、お義兄様」
昼食が急に楽しみになったライラは、砂時計を確認してみて驚いた。
もう砂時計が落ちきりそうになっているではないか。
「お義兄様、もう六時間ほど経過しておりますわ」
「そんなに? 執事長からも気をつけるよう教えてもらっていたけれど、本当に時間の感覚がなくなるんだね」
「あまりお腹も空きませんのね。お昼はどうしたしましょう?」
「せっかくだから、食べられるだけ食べようか。ライラもイチゴなら食べられるだろう?」
そう言いながら準備を始めるアウリス。ライラも手伝おうとすると「ライラは読書を楽しんでいて」と全て整えられてしまった。
至れり尽くせりな状況に感謝しつつ、昼食という名のイチゴを食べて満足したライラ。
再び読書に戻ろうと思い、砂時計とにらめっこをする。
「どうしたの?」
「帰る時間を考えると、どの砂時計が良いかと迷ってしまいましたの」
夕方までに帰るとなると、残りは三時間程度だろうか? 六時間でもあっという間だったので、残り少ないと思うと寂しく感じてしまう。
「今日は夜遅くなっても大丈夫なよう執事長には話してあるから、また六時間でも良いんじゃない?」
「そんなによろしいですの?」
「俺は俺で、久しぶりにのんびり過ごさせてもらっているから構わないよ」
「それでしたら……、お言葉に甘えさせていただきますわ」
ノアに帰る時刻は伝えていなかったけれど、アウリスが既に指示しているのなら執事長が上手く伝えてくれるだろう。
何より、原本をまだ読みたいという欲に負けたライラは、六時間の砂時計をひっくり返すのだった。





