50 ノアがいない場所2
ここ数ヶ月は義兄妹として適切な距離を保ってくれていたのに、オルガが失踪してからのアウリスはおかしくなってしまった。
今でも第三者がいればアウリスは適切な距離を保ってくれるけれど、こうして二人きりでエリアスの面倒を見ている時に限って、アウリスは変わってしまうのだ。
まるで婚約していた頃に戻ったかのような態度で、ライラに触れてくる。
そんなアウリスと二人きりは居心地が悪いので、最近は訪問回数を減らしていたけれど。乳母からあのように願われると、叶えてあげないわけにもゆかず……。
「難しい顔してどうしたのライラ。疲れているなら寝ていても良いよ」
アウリスは大切なものを扱うように優しくライラを抱き寄せ、ライラの頭にこてりと自身の頭を寄せてくる。
こんな姿を誰かに見られてしまったら、勘違いをされてしまう。
「困りますわ……、アウリスお義兄様」
「どうして? 可愛い妹を気遣うのがそんなにおかしいかな?」
「わたくし達は義理の関係ですのよ。距離が近すぎますわ……」
「俺はそうは思わないけれど。ライラにとって俺は、昔から『兄』みたいなものだったよね。ライラもよく俺に抱きついてきただろう?」
確かにライラにとってアウリスは婚約者であるとともに、大切な家族のようであり兄のような存在だった。
成長とともに婚約者の意味を知り、恋心も次第に芽生えたけれど――
今でも頼れる兄という印象は変わらない。
けれどライラはもう子供ではない。アウリスの態度は明らかに度を越している。
「お義兄様が態度を改めてくださらないのでしたら、わたくしはもうこちらへは参りませんわ!」
このままではいけないと思ったライラは、エリアスをアウリスに預けて立ち上がる。
エリアスのことは心配だけれど、アウリスとの間に悪い噂が立ってしまえば元も子もない。
ライラが立ち去ろうとすると、無造作に子供をソファーに寝かせたアウリスが、ライラを行かせまいと後ろから抱きついた。
「まってライラ、俺が悪かったよ! ライラの言う通りにするから、帰らないで!!」
大声に驚いたのかエリアスが泣き始めたというのに、それを無視してアウリスはライラの耳元で謝罪を並べ立てる。
そんな彼の態度に驚きつつも、ライラはあることに気がついてしまった。
(アウリス様は、エリを自分の子と認識していないのだわ)
アウリスの口から子供の名を聞いたのは、初めてエリアスを紹介された時の一度きり。
それ以降、アウリスはいつも我が子のことを『赤ん坊』と呼んでいる。
先ほど乳母も、アウリスが子供の様子を見にきていないように話していた。
「放してくださいませアウリス様……。エリを泣き止ませてくださらなければ、お話もできませんわ」
「ごめんねライラ。けれど、赤ん坊をどうあやせば良いのかわからないんだ」
「赤ん坊ではなく、エリですわ」
ライラはエリアスを抱き上げると、アウリスに抱き方を指導した。ぎこちなく抱きかかえるアウリスの姿は、今までエリアスを抱いたことがないのだろうかと思えてしまう。
何とか泣き止ませることに成功したアウリスは、ほっとしたようにライラに微笑んだ。
「ありがとうライラ。俺でも泣き止ませることはできるんだね」
「当たり前ですわ、お義兄様はエリのお父様ですもの。しっかりしてくださいませ」
「……そうだね。オルガもいないし俺の子だっていう実感が湧かなくて」
お祭りの準備があったのでエリアスが生まれて早々、アウリスは領地へと来なければならなかった。
本来ならオルガと一緒に子育てするはずだった機会を、アウリスは逃してしまったようだ。
「お義姉様が失踪してしまわれてお辛いでしょうけれど、お義兄様がエリを愛さなければ誰もエリに目を向けてくださいませんわ」
「俺一人で、子育てできるか不安だよ……。ライラはもう来てくれないみたいだし……」
いつも努力を惜しまないアウリスにしては、珍しく弱音を吐いている。というよりは、いじけているように聞こえる。
オルガもいない状況で先ほどの突き放し方は、彼に負担をかけてしまっただろうか。
けれど度を越した態度で、ライラばかりを可愛がるのは止めてもらいたい。ライラとアウリスはもうそういう関係ではないのだから。
「それはお義兄様次第ですわ。――そうですわね、お義兄様がエリにミルクを飲ませられるようになりましたら、また様子を見に参りますわ」
一緒に子育てするつもりなど毛頭ない。ライラがすべきは、アルメーラ家の跡取りが虐げられることなく育つよう見守ることだけ。
「うん。また俺は我がままを言ってしまったね。けれど、ライラのおかげでがんばれる気がしてきたよ。ありがとう」
ライラの帰りを見送った後、アウリスは呼び鈴を鳴らして乳母を呼び出した。
部屋へと入ってきた乳母は、初めてエリアスを抱いているアウリスを目にして、驚きのあまり言葉を失ってしまった。
これまで何度もアウリスの従者に願ってみたけれど、一度もアウリスは単独でエリアスのところへは来てくれなかったのだから。
乳母は心の中で、ライラへ感謝の祈りを捧げた。
「今まで君にばかり押し付けてしまって申し訳なかったね。エリにミルクを飲ませてみたいんだけど、準備してくれるかな」
「承知いたしました! ただいまお持ちいたしますわ」
乳母が準備のために部屋を出ていくと、アウリスはにこりと我が子に微笑みかけた。
「君を可愛がれば、ライラはこれからも会いにきてくれるんだ。生まれて早々、親孝行な息子だよ」





