04 変わる環境4
二人の結婚が決まったのはついこの前だというのに、なぜそうなるのか。
『健康な娘が望ましい』だなんて、言い訳にすぎなかったのだ。
オルガの妊娠が発覚したので、アウリスは責任を取らされたのだろう。結婚が決まって式を急いでいる理由もそれだと理解できた。
アウリスに裏切られた。
そう思いながらも、ライラの心に怒りはさほどこみ上げてこなかった。
こんな状態のライラに見切りをつけて、新しいパートナーを見つけるのは当たり前だと。
できることなら先に婚約破棄をしてほしかったけれど、この前アウリスが見せた悔しさを滲ませた涙も、嘘ではないように思える。
彼は死にゆく自分に負担をかけないために、優しい嘘をついてくれたのだと思うことにした。
何より、そんなことで心を揺るがせる気力など、ライラにはもう残っていなかった。
その後も二度ほどアウリスは公爵邸を訪れたが、ライラは彼に会うことは拒否して屋根裏部屋で過ごした。
もう彼に会いたい気持ちも消えたし、部屋を移動させられるのが負担でならない。
人生の終わりが刻々と近づいているように思えたが、ライラの心は穏やかだった。
使用人達は相変わらず手厚い看護をしてくれており、必ず誰か一人は部屋に常駐して見守ってくれている。
それに叔母も変わらず、食事を届けに来てくれていた。
もう叔母が作ってくれるスープしか飲めない状況となっていたが、毎食欠かさず様子を見に来てくれることが、ライラにとっては大きな心の支えとなっていた。
そんな叔母も、オルガの結婚式のために王都へ向かわなければならず。
オルガはすでに王都へ移動していたが、叔母はライラが心配だからとぎりぎりまで公爵邸に留まってくれていた。
叔母が王都へ出立する前日の夜。
ライラは屋根裏部屋のベッドで寝ながら、メイドに聖書を読んでもらっていた。
もうライラはお祈りの体勢すら取れない状況なので、せめてもの代わりにと信仰心が厚いライラのために毎日メイドが読んでくれている。
それを聞きながらウトウトするというのが、ライラにとっては束の間の安らぎとなっていた。
ライラがそろそろ眠くなり始めた頃、扉をノックする音が。
誰だろうと思いながら視線だけを移動させると、叔母が屋根裏部屋へと入ってきた。
「今夜は、わたくしがライラを看るわ。あなた方は下がりなさい」
メイド達が下がるのを確認した叔母は、ライラのベッドと並んでいる簡易ベッドに腰かけた。
「叔母様が一緒に寝てくださるなんて、嬉しいですわ」
「しばらく会えないもの、今日くらいはと思って」
優しく微笑んだ叔母は、それから少し申し訳なさそうに続ける。
「それに少し相談したいこともあったの……。ねぇライラ、あなたは公爵邸を出たほうが良いわ」
「え……」
「ほら、結婚式が終わったらアウリス殿下もこちらに住むでしょう? 婚約破棄した者同士が一つ屋根の下で生活するのは、お互いに気分の良いものではないと思うの」
思ってもみなかった提案に対して、ライラは困惑の表情を浮かべる。しかし叔母はライラを安心させるように頭をなでた。
「心配しないで。修道院で手厚い看護をしてもらえるよう、手はずは整えてあるの」
「ご配慮には感謝いたしますが、馬車での移動に耐えられそうにありませんわ……」
部屋を移動させられるのでさえ気分が悪くなるというのに、舗装されていない領地の道を馬車に揺られて移動するなど無理に決まっている。
それにライラとしては、人生の最後は生まれ育ったこの公爵邸で終えたい。
「そう……。良い案だと思ったのだけれど……、無理を言ってしまってごめんなさいね。今の話は忘れてちょうだい」
「はい……」
叔母の提案を断ってしまい、気分を悪くさせてしまっただろうかと心配になる。
けれど叔母は気分を害する様子もなさそうに、サイドチェストの上にあったポットのお湯を、カップに注ぎ始めた。
「さぁ、もう寝ましょう。暖かいものを飲むと良く眠れるわ」
そう微笑みながら叔母は、懐から薬のような紙包みを取り出す。
その紙包みを開くと、カップの中へと粉を溶かした。
「叔母様……、そちらは?」
「あなたが好きなものよ。良い香りがするでしょう?」
叔母は、ライラの背中に腕を差し込み起き上がらせると、カップをライラの口元に寄せる。
湯気がライラの鼻をかすめ、叔母が言った意味を理解した。
(スープの香りと同じだわ……)
いつも叔母が作ってくれるスープ。それに含まれている甘い香りが漂う。
今となっては、ライラが唯一摂取できる栄養源でもあるけれど――
ライラは、反射的に顔を横にそらした。
「あら、どうしたの?」
「今は飲みたくないわ……」
理由はライラにもわからない。けれど、本能が全力で飲むなと拒否をしている。
いつもより甘い香りが強くて、気分が悪くなってきたせいかもしれない。
「少し量が多かったかしら。けれど、今日はこの量を飲んでもらわなければね」
困ったわと言いたげな表情を浮かべた叔母は、ライラの口元に再びカップを寄せる。
体力が残りわずかなライラは、なんとか手を動かして口元を覆い必死に抵抗した。
甘い香りに包まれて眩暈がしてきたけれど、意識を失ったら人生が終わってしまいそうな危機感を覚える。
「まぁ、なんて強情な子なのかしら。これで最後なのだから、わずらわせないでちょうだい」
その言葉を聞いて、ライラの瞳からは涙が溢れた。
叔母の優しさのような、ほんのりと甘いスープがずっと好きだったのに。自分の体調不良はこの甘い何かが原因だったようだ。
毎食欠かさずに運んでくれたのは、優しさなどではない。
叔母は、ライラがこの甘い何かをしっかりと摂取したか、確認していたにすぎなかったのだ。
この甘い粉が毒なのかどうかもライラにはわからないけれど、現在進行形で叔母が自分を危険に晒していることだけは確か。
最後の支えとなっていた叔母にさえ裏切られたと悟り、絶望感に襲われたライラ。
けれどアウリスの時のように、無理やり納得して受け入れることなどできない。受け入れたらそこで人生終了だ。
しかしライラにはもう、使用人を呼べるほどの叫び声を出せるはずもない。
意識が朦朧とする中、ライラは最後の希望となる者の名を思い浮かべた。
アルメーラ家には『精霊神には、気軽に願ってはならない』という掟がある。
精霊神は慈悲深い。特に生贄となった王子の子孫を特別視しているので、私欲のために彼に願うのは厳禁とされていた。
ライラも今までは一度も精霊神に願ったことはない。けれどライラが頼れる者はもう、神以外にはいなかった。
(精霊神様! ……ノア様!)
それは一瞬の出来事だった。