変わらぬ愛
「皇后、そなたにはがっかりだ」
百人以上集まった大きなパーティー会場が、一気に静まり返っていた。
私を真っ直ぐに軽蔑の眼差しで睨みつけるこの男は、この国の王であり、私の夫。
「……陛下。私は当然のことをしたまでです」
溢れそうになる感情をぐっと抑えて、私はつとめて冷静に陛下に言う。
しかしそんな私とは反対に、陛下は頭に血が上っているようだ。
「当然のことだと?この仕打ちが当然だと言うのか!?」
勢いよく広げた陛下の腕が空を切る。
周りに大臣や貴賓達が大勢いるというのに、声を荒げて大きな身振りをしていた。
「落ち着いてください陛下。皆が見ています」
「そう、皆が見ているのだ!皆が見ている中でそなたは何をした!!」
なだめようとする私の言葉はもう届かないようだ。それどころか、私の言葉を使って私への叱責を強めてきた。
「もうおやめください陛下!」
埒のあかない陛下と私の会話に割って入ったのは、可愛らしい声の持ち主。
「ルーシェ……」
「陛下。私は大丈夫です。……側室の私は嫌われて当然。陛下の隣に立てないのも、パーティーで一緒に踊れないのも当然です」
これ見よがしに陛下の左腕にすり寄り、上目遣いで陛下に進言したのは、本件の当事者である側室のルーシェ。
数週間前に陛下が側室にして以来、寵愛を一心に得ている女だ。
何しろ彼女は見た目が愛らしい。愛嬌もあり、笑顔を絶やさない彼女に、陛下は惚れこんでしまった。皇后である私とは正反対の人物だ。
地位は第四王妃であるにもかかわらず、皇后も他の側室たちも寄せ付けないほどに愛されている。
「皇后様、どうかお許しください。わがままを申した私が悪いのです。このパーティーは皇后様の誕生日を祝うもの。私のような側室ごときが陛下と踊るべきではありませんでした。どうかお許しを」
ルーシェはすっと頭を下げた。
それを見て、ここにいる多くの人間がルーシェに同情の目を向ける。
なんと……ずる賢い女なのか。
その言い様では、まるで私が“側室との踊りを許容もできない心の狭い皇后である”と語っているように聞こえる。
彼女は、愛らしい見た目からは想像できないほどに立ち回りが上手であった。私が何か言う前にそうやって私を悪者に仕立て上げる。
たった数週間で皇后の私の立場が側室に取って代わられようとしているのは、彼女のずる賢さによるものでもある。
何を言っても無駄なこの状況で、一体何から言えばいいのかと考えあぐね、私はため息をついた。その瞬間、ルーシェはすかさず涙をこぼし始めた。
「申し訳ございません。言葉も出ないほど、怒らせてしまったとは……」
「いいえ私は……」
「泣くなルーシェ。そなたは何も悪くない」
陛下はルーシェの涙を拭った。
ルーシェの発言に反論しようとした私の言葉に重ねるように、彼女への慰めの言葉を添えて。
今日は私の誕生日。
自分が主役のパーティーは中々照れくさいものだが、それでも皇后という地位があるから、毎年盛大に祝われる。
そして、皇后の誕生日パーティーと言うからには、少なからず決まりがある。
最低何人来賓を集めるとか、振舞う料理には皇后の好物を出すとか、パーティーで最初に踊るファーストダンスは陛下と皇后が行うとか。
そんなこと、と言ってしまえばそれまでだが、それでも決まりは守るべきだ。
まさかファーストダンスを側室と踊るだなんて、あってはならない。
これでは皇后としての私の立場がないではないか。
「陛下、どこまでルーシェに甘いのですか」
「甘いだと?そなたが厳しすぎるのだ。ルーシェは私と踊っただけであろう。それでなぜ平手打ちを受けねばならない」
陛下には“踊っただけ”なのか。
私の誕生日に、皇后が相手であるべきのファーストダンスを側室に奪われることが、どれだけ場を乱し、どれだけ私に屈辱を与えるか、陛下は分かっていない。
それだけ陛下はルーシェを愛し、周りが見えていないということだ。
「話はそう簡単ではありません。ファーストダンスは陛下と皇后が踊る決まりです。それを側室が踊るなど……身の程をわきまえていない証拠です」
だから、平手打ちはその罰。
確かに皆の前で行う事ではなかったかもしれない。
私だって、出来ればここで罰を与えたくはなかった。
でもずる賢い彼女は、私を怒らせることに長けている。
ファーストダンスを踊り切った後、ルーシェはその足で私の元へ駆け寄ってきてにっこり笑ってこう言ったのだ。
“皇后様。お次どうぞ”
本来最初に踊るべき私に向かってよくもそんなことが言えたものだ。
あまりにも屈辱的なその言葉に耐え切れず、私はその場で彼女に平手打ちをした。
パーティー会場には彼女の頬を叩く大きな音が鳴り響き、それを少し離れた場所で見ていた陛下が、血相を変えてこちらに向かってきた。
そして、冒頭のシーンに戻る。
「皇后、そなたにはがっかりだ」
「……陛下、今日が何の日かお忘れですか?」
真正面から向き合っても会話にならない陛下に、私は質問を投げた。
今あなたが、側室を守り、皇后へ牙を向けているこの会場が、何を祝うパーティーなのか。思い出してほしくて、私はわざとらしく聞いてみた。
「もしお忘れなのであれば、そこに控えている側近に聞いてみてください。そうすれば、私の行いが正しいものであると判断していただけるはずです」
「そうやって自分のしたことを謝らないつもりか!!」
少し嫌味っぽくはなってしまったが、陛下に今一度チャンスをあげたつもりだった。
会場を見渡せば分かってくれると思ったからだ。陛下が周りからどんな目で見られているか。
皆は、平手打ちされたルーシェに多少の同情を示しはしても、皇后の行いが正しいものだということを分かっている。それも分からず側室に熱を上げている陛下に対して、皆の目は冷たかった。
『皇后の誕生日パーティーで側室とファーストダンスを踊り、行為の愚かさにも気付いていない残念な皇帝』
そんなレッテルが貼られたことにも陛下は全く気付いてくれない。
(ルーシェは魔女か何かかしら。……陛下をここまで夢中にさせるなんて、ほんとすごい)
絶対に相容れたくない相手だけれど、そのテクニックには恐れ入る。
苦笑いを浮かべてしまいそうになったとき、ふと私の視界にある花が入ってきた。
――――青の花びらがくるんと反り返った小さな花。
その花は、会場に飾られたたくさんの花の中に混ざっていた。
私は吸い寄せられるようにその花に近付いていく。まだ静まり返ったままの会場では、私のヒールの音がいつもより大きく聞こえる。
すっと手を伸ばしてその花を手に取ると、甘い香りが漂ってきた。
(……良い香り。私の大好きな花……)
私は手に取ったその花を皆に見えないところできゅっと胸に抱き、唇を噛みしめる。
そうして数秒ののち、私は踵を返し、陛下の目の前まで戻ってその花を差し出した。
「陛下、この花を……覚えておられますか?」
この花には、陛下と私の思い出がある。
もしここでそれを思い出してくれたのなら、何かが変わるかもしれない。
……これは、賭けだ。
「まあ、可愛いお花ですね」
「貴女は黙っていなさい、ルーシェ」
またしても間に入ってこようとしたルーシェを、今回はピシャリと言って黙らせる。
この花に私の人生を賭けたのだ。邪魔はさせない。
「どうですか陛下。この花を見て何か、思い出すことはありませんか?」
口を開かない陛下に、私は再度問いかける。
「…………っ」
陛下の顔色は困窮していた。
それがどんなことを意味するのか、私は頭の中で考える。
本当に覚えていないのならきっと即答するはず。即答せずに困窮するというのは、それ即ち……。
私は瞼を閉じ、この後の回答を静かに待つ。
「……皇后、私は」
「答えを聞かせてください陛下」
答え以外は必要ない。
この花を覚えているか否か、それだけで良いのだ。
それ以外の言葉は、何もいらない。
私の様子を見て逃れられないと思ったのか、陛下は観念して答えを出した。
「……覚えていない」
沈黙から察してはいたものの、その答えは私が求めていたものではない。
私は賭けに、負けた。
「そうですか」
それ以上の言葉は、出てこない。私は陛下の気持ちを受け入れるしかない。
「……すみません陛下。気分がすぐれないので、部屋に下がってもよろしいでしょうか」
その場に崩れ落ちたい気持ちをなんとか持ちこたえさせて、陛下に許しを請う。
陛下は目を合わせてくれないまま、ああ、とだけ答えて了承してくれた。
「では失礼いたします」
ゆっくりとスカートの持ち上げて、陛下に礼をする。
下を向いた隙に表情もちゃんと作り上げる。
相手を射抜く鋭い目つきで、自信に溢れた表情を見せなければならない。
私は皇后として、いつでも凛とした姿を見せなければならないのだから。
私の去り際を気にくわなそうな表情で見てくるルーシェを横目に、私は会場を後にした。
***
部屋に着いてすぐソファーに座り、皆から見えなくなったところでようやく私は素を出せる。緊張の糸が切れたのか、そこでは今までで一番深いため息が出た。
「皇后様、お茶でも飲まれますか?」
部屋の中には私の侍女のカミラが一人だけ。昔から世話をしてくれた信頼のおける彼女は、そう言って私の前にティーカップを置いてくれた。
「ありがとう」
カミラの入れてくれたお茶を飲むと、少しリラックスできた。
そうして一口一口飲んでいき、私は徐々に覚悟を固める。
「カミラ、もしも私が王宮を出たら……貴女はついてきてくれる?」
突然の質問に、カミラの眉間に皺が寄った。
「唐突な質問ですね」
「ごめんなさい」
「私はずっと、皇后様のお側にいます。たとえ王宮を出たとしても付いて行かせてください」
カミラの真っ直ぐな答えは、私の心を喜ばせてくれた。
一番、欲しかった言葉だ。
「……あの花は、それほど大事な花だったのですか?」
今度はカミラから質問された。
「会場で陛下に差し出した花は確か……」
「ヒヤシンスよ」
カミラの口から花の名前が出る前に、私の口から名前を言う。
「あれはヒヤシンス。青の、ヒヤシンス」
―――あれはまだ、陛下が皇太子殿下だった頃。
婚約者に選出された私が王宮に挨拶に行ったとき。
殿下と二人で庭園を散歩していたら、殿下はある花をくださったの。
皇太子殿下との婚約は家同士の結婚で、お互いそこに感情なんてないと思っていたのに。
『私は将来、この国の皇帝になる。だから、これから先、私は他の女性とも婚姻をするだろう。それでも、正妃は君一人だけだ。今日会ったばかりの君にこんなことを言うのもおかしいかもしれないが、私は君を愛すると誓う。君にも、私を愛してほしい。そして……』
「……この花の花言葉を将来ずっと思い続ける、と言ってくれたの」
昔の思い出をカミラに向かって語りながら、私は頭の中であの時の事を鮮明に思い出していた。
「子供心に陛下の言葉に心を打たれたの。愛するって、あんなに真っ直ぐに言われるとは思わなかったし。きっとあの時から私は、陛下を好きになっていたんだと思う」
目頭が熱くなるのを感じた。
陛下への気持ちを口にするのは初めてで、口にして初めて、自分の気持ちをしっかりと自覚できたのかもしれない。
「陛下は意外とロマンチストな方だったのですね」
「ふふ、そうね」
―――――青のヒヤシンス。花言葉は【変わらぬ愛】
変わらぬ愛を、くれていると信じていた。
お互いに口には出さなくても、その気持ちは変わらないと思っていた。
皇帝と皇后という立場で、これからもこの国のために尽くしていくと思っていた。
……ルーシェが現れるまでは。
彼女が現れて、陛下は呆気なく変わってしまった。
(覚えていない、か。意外と堪えるわね)
もしも覚えていると言ってくれたなら、まだ陛下を信じられたのに。
どんなに陛下がルーシェを愛していたとしても、私の事を忘れてはいないのだと信じ続けられたのに。
その答えでは、私はもう王宮にはいられない。
「カミラ、私の荷物をまとめてくれるかしら?出来れば明日までに」
「……承知いたしました」
カミラは深く追求せず、ただ私の言う事を了承してくれた。
そして翌日、私は王宮を出た。
***
陛下には最後に手紙を残してきた。
直接別れを言うのは……苦しかったから。
『私は王宮を離れます。皇后としてあるまじき行為をお許しください。
後宮のことは全て書物に記しており、第二、第三王妃に渡しましたのでご安心ください。
皇后の座をどうするかは、陛下に委ねます。
他に相応しい方がいらっしゃるのであれば、私は喜んでその座を譲ります。
昨日陛下にお伺いしたあの花は、私の一番好きな花でした。
最後に一つだけ言わせていただけるなら……
陛下にも、あの花を一番好きでいてほしかった。
他にたくさん好きな花が出来てもいいから。
あの花が一番だって、言ってほしかった。
私は今でも、あの花の花言葉を……覚えています。
どうかお元気で』
―――三か月後、陛下と私の離婚が成立し、皇后の座にはルーシェが就いた。
私は最後に、陛下に花束を贈ることにした。
何の花にするか悩んだけれど、あの花を送ろう。
陛下が真意に気付いてくれることを願って。
紫色のラナンキュラス――――――
【あなたの幸福を願います】
たとえあなたが一緒にいてくれなくても、
たとえあなたが他の人を愛していても、
あなたの幸福を願い続ける。
報われなくても、愛してる。
これが私の、変わらぬ愛です。
完