出会いの昼(前)
「……よし、いなくなったわね」
院内の中庭、植木の陰に隠れるように身を縮めていた私は顔を出して辺りを確認する。
最初はこそこそと移動しながらあちこちを見て回ることができていたけれど、日が昇りきってからはそうもいかない。
病室からいなくなっていることを確認されてすぐさま、病院の至る所で私の姿を探す包囲網が作られてしまっていた。
そりゃあ重病人が姿を眩ませたとなったらみんなびっくりするだろうし、変なところで野垂れ死んでしまったら病院の沽券にも関わるだろうし、仕方がないとは思う。
でもどれだけ頼み込んだって看護師さんから院内の散策許可なんて貰えるはずもないし、こうするしかないんだよね……。
「間近で桜を見ようとしたのは失敗だったかな。病院服ってシンプル過ぎて逆に目立つし」
こうやって隠れているのも時間が惜しいけれど見つかったら間違いなく病室に帰されて今日は一日中移動禁止令を敷かれるに違いない。……けど、そんなわけにはいかないんだ。
せっかくこんな機会を貰えたんだから、思い入れのある場所を見て回るくらいだけど、存分に謳歌するまで今日は病室に戻るつもりはないから。
何もない日常ってドラマとか歌とかでよく耳にするけれど、結局は永遠の〝常〟ってものは存在しないワケで。
良くも悪くも転機は脈絡もなくやってきて、それまでの日々を濃い色味で塗りつぶしていく。
私にとってはそれが治療不可能なほどに重篤化した難病ってだけに過ぎなくて、人よりも短い余生を送るはめになってしまった程度のことなんだとはもう割り切ってる。
病魔に支配された私の体に自由なんてもう存在するはずもなく、あとは横たわったまま終わりの時を待つだけなんだって、何度も自分に言い聞かせてきた。
それでも、この一日だけは私の自由に使わせて欲しい。せっかく最後の最後に体を気にせず歩けるようになったんだから。
「けどまあ、もう結構なところを見て回ることが出来たとは思うんだけどね」
この病院は田舎にある病院としてはちょっとばかり大きい方だけれど、地方の大病院に比べてはそう大きくもないから、ちょっとばかり見て回るくらいなら歩いても半日程度で踏破できる。
初めて病状を確認したときの診察室。
不安で押し潰されそうになりながら通り抜けた手術室前の廊下。
病院生活が苦になって逃げだそうとして、途中で力尽きて動けなくなった階段の半ば。
死ぬほどきつかったけどいろんな出会いに恵まれたリハビリテーションルーム。
通院中、明るい笑顔の看護師さんたちと何度も話す機会があった談話室と受付。
昔はどの場所もくすんだ灰色に塗りつぶされているようにしかみえなかったけれど、精神的余裕が戻ってきた今みてみると、どの場所も数々の思い出で彩られていた。
贔屓にしていた院内がこうも輝かしく見える。それがなんともまあ、嬉しくも思うし寂しくも思う。
「別れの機会を与えてくださるなんて、天の神様ってのもずいぶんと憎めないお方だよ、ほんと────ん?」
心地よい陽気に誘われて多くの入院患者とそのご家族で賑わう中庭を見回しながら、次はどこを見に行こうかな、なんて考えていると。
「……」
ベンチに腰掛けているひとりぼっちの少年と目が合った。
見た目からして年は小学生くらいだと思うけれど、この次期って学校はもう始まっている。
遠目から見てわかる目の隈に暗い顔でうなだれていることから、もしかしたらご家族に不幸な事態が訪れてしまったのかも知れない。
「────っ!」
少年は私をじっと見つめていたけれど、どうも私が見ていることは気づいていなかったようで。
ハッと驚いた顔を見せるとちょっとばかり気まずそうに唇を噛んで、すぐに目を逸らされた。
うん、わかるよ。見知らぬ誰かと急に目が合ったら気まずくて仕方がないよね。
……でもちょっとさあ、いかにも助けを求めているような表情をしていたのにそれはあんまりじゃない?
「おーい、きみ! 一人で俯いてから、どうかしたのかな?」
「ち、近づかないで!」
「がーん!」
あまりにも悲しそうにしているものだから元気づけてやろうかな、なんて考えていたのに、思ってもみなかった拒絶の言葉を言われて思わず声が出てしまった。
……けどなんで、近づかないで、なんだろう。気にしないで、とかならわかるんだけど。
あ、ひょっとすると────。
「もしかして体が臭かったりした!? ごめんよー、長いこと入院してるからお風呂なんて全然入れてなくってさあ」
「そ、そうじゃなくて……!」
両手を前に振ってしどろもどろする少年。……ヤバい、めっちゃカワイイ。
でも、その後に再び頭を下に向けて呟いた言葉に私は耳を疑うことになった。
「ぼくに近づいたら死んじゃうよ。だって……ぼくは死神だもん」