おかしな一家
おかしな一家
リニア新幹線を使えば、東京から福岡まで二時間ちょっとで着いてしまう。それなのに、地下ばかり走るから退屈だという声が聞かれるのは、あらゆるものが加速度的にスピード化していく中で、移動時間の短縮化にはまだまだ不満を持つ人間が多いということだ。
しかし光輝の目には、暇を持て余している乗客は目に入らなかった。この二時間を貴重な時間ととらえてスマホやパソコンをいじる者もいれば、座席に設置されたテレビを見る者、電子書籍を読む者もいる。また、窓ガラスは液晶画面も兼ねていて、通過している地上の景色はもちろん、世界中の車窓風景を選択して映し出すこともできる。現に光輝は、ほんの数日前に見たスイス山岳鉄道を選択し、実際の臨場感と変わらないことに驚いていた。メンヒやユングフラウ、急峻なアイガー北壁が迫ってくる。リニアは韋駄天のように走っているのに、ローカルな山汽車に乗っている気分。違うところは、レールの振動がなく、不気味なほど静かなことだ。
もちろん、何人が映像の車窓風景を楽しんでいるのかは分からない。窓自体が乗客の視線を感知して、映像をその方向に向けるため、ほかの乗客からは見えないようになっている。移動時間は貴重な睡眠時間であることも確かで、居眠りをしている乗客が数人いる。三、四のいびきがハモって、山びこみたいに輪唱になったりする。ソプラノパートは隣で熟睡している新妻の早苗で、どうやらこいつが主旋律らしく、耳のそばでやたらと大きく聞こえる。光輝は早苗がいびきをかくことを知って苦わらいしつつも、いびきの合唱をヨーデルコーラスに見立てて山岳風景を楽しみながら、これから会いに行く幼なじみのことを思い出そうとした。……が、割れたガラスのような記憶が胸を刺し、ズキッとして思わず顔をしかめた。
小学校四年の夏休み、親友の仁は車で家族旅行に出かけて大きな事故に遭った。車マニアの父親が安全性の低いクラシックカーで高速道路を激走し、右側前輪が外れてトンネル入口の壁に激突したのだ。両親は即死、仁と姉は集中治療室に入れられ、姉は数日間苦しんだ後に他界した。ひとり仁だけが生き残ったが右手右足を失い、おまけに脊髄を損傷して歩行が困難になった。
光輝は毎日のように病院に見舞いに行ったが、一般病棟に移されたあとも仁は一言もしゃべらず、ただぼんやりと天井を見つめているだけだった。言葉が話せなかったわけではない。話そうとしなかったのだ。世話をしていた祖母が促しても無言のまま。あれほど明るかった仁が、何でも話していた仁が硬い殻の中に閉じこもり、しっかりと蓋を閉じてしまった。まだ子供だった光輝は、親友にも口を開こうとしない仁がしゃくにさわったし、手足を失って暗い顔つきをした仁を見るのがつらくなり、次第に面会に行くのも遠のいて、三カ月後にはまったく行かなくなってしまった。結局仁は半年後に退院して、福岡にある両親の実家に引き取られていったが、一切連絡が来なかったのには光輝もあきれてしまった。
ところが、光輝と早苗が新婚旅行から帰ってくると、一〇年間も音信不通だった仁からお祝いのプレゼントが届いていたのだ。イタリア製のクラシックな食器セットで、添えられた手紙は短く、「ご結婚おめでとう。この白いカップみたいに純な早苗ちゃんを傷つけるようなことがあったら許さないよ」と書かれていた。仁も早苗も同じクラスメートだったから、早苗の性格は分かっているのだと光輝は思った。さっそく御礼をとパックに書かれていた電話番号に電話をし、親友の大人声を聞きながら、話の流れの中で招待を受けたのである。二人ともヨーロッパから帰ってきたばかりで疲れていたが、新婚旅行の延長気分で翌朝には九州へ旅立ったといっても、たかが二時間ちょいの車中である。
福岡の駅に着いて改札口を出ると、「光輝・早苗様」と点滅する液晶ボードを持った背広姿の運転手が立っていた。運転手は二人をクラシックなリムジンに乗せて市郊外の豪邸に運んだので、二人は「カネモチィー!」と声を上げた。この屋敷は、武家だった先祖代々からの領地に建てられたものであると運転手が説明した。
鉄門が開き、車が中に入る。すると、そこは広大なサバンナで、野生の草食動物たちがのんびりと草を食み、近くでライオンやチータたちが寝転がり、遠くにはゾウの集団も見える。二人は「なあんだ」と肩を下ろし、ため息をついた。欧米の広い屋敷で流行っている最新の3Dプロジェクションマッピングに違いない。視覚だけでなく、聴覚や触覚、嗅覚までもトータルに騙してしまうトリック・ワークのVRが売りで、日本でも流行りつつある。しかし、ある程度の土地がないとスクリーンボードが隣の敷地にはみ出てしまうので、日本用のスモール版は来春発売される予定、とマスコミで盛んに宣伝されていた。大きなオスライオンが車に寄ってきたので、早苗が窓を開いて手を差し伸べ、ライオンの鼻をなでた。そのか細い手を、分厚いザラザラの舌がなめ回す。早苗はあまりにもリアルな感触に怖くなって、思わず手を引っ込めた。このサバンナの中でどれがVRで、どれが本物かを見分けるのは難しい、といってペットショップでも買えるクローン・ライオンは攻撃的な遺伝子を徹底的に抜かれてしまい、借りてきた猫以上に大人しい。
車が進むと、リアルな映像はどこかのポイントで消えて現実の家が現れるはずなのだが、そんな気配はまったくなく、草原の真ん中に背広姿のスラリとした美青年が立っている。車は青年の前に停まり、運転手が降りて早苗側のドアを開けた。二人は車から降り、リムジンは去っていく。いつの間にか、ライオンやヒョウ、シマウマやゴリラたちが三人の周りを取り囲んだ。
「ようこそ、北九州のサバンナへ」
青年は満面の笑みを浮かべて二人に近づき、まずは早苗に握手を求めた。その手は細く長い指を持っていたが、握手の感触が小さな子供の手であることに驚いて、早苗は思わず手を引っ込めてしまった。光輝は、続けざまに二回も手を引っ込めた早苗を見てわらいながら、「君は?」と青年に聞いた。
「忘れたかい? 仁だよ」
「しかし、たしか君は……」
青年の頭からつま先まで、光輝はいぶかしげな眼差しを移動させた。記憶の中の痛々しい姿からはあまりにもかけ離れている。すると次の瞬間、美青年が美少年にパッと変わったので、アッと声を上げた。二人とも虚像か、それともどちらかが虚像か、まったく分からなかった。
「これで僕が仁であることが分かっただろ」
目の前の仁は、交通事故に遭う前日に遊んだときの仁そのものだった。仁はほとんど裸で、草でつくった腰蓑を着けているだけだが、ケガの痕跡はどこにも見られない。
「君は虚像だね」
「僕は本物さ。最初の青年がバーチャル。あれは、君と同い年の僕だ。単なるイメージだよ」
「でも、あなたも本物じゃない。おかしな格好をしているし、一○年の時間は止まることがないもの」
早苗がわらいながらいった。
「この格好は気にしないでくれたまえ。わが家では毎月壁紙を変えて楽しんでいるんだ。先月はイタリアのアマルフィ海岸だった、先々月は南極だった。今月はアフリカのサバンナさ。で、衣装もそのつど変えるんだ。先月はカーニバルの衣装とお面を着けていたし、南極では当然分厚い防寒服。サバンナはやっぱり裸がいい。僕は一年中旅しているのさ。もちろん、バーチャルな世界でね。いまの時代、現地に行くのはばかげている。特に僕のような人間嫌いには、地元の連中との交流はいやだから、バーチャルで十分なんだ。僕は仮想現実で生きているバーチャル・オタクさ」といって、仁はわらう。たしかに、最近のVRは精巧で、人間の粗雑な感覚器官をいとも簡単に騙してしまうから、はまり込んでしまう若者は多い。しかし、それが社会問題になっていても、この場ではどうでもいいことだ。光輝と早苗の目の前にいる少年が3D映像でないとすれば、果たしてそれは何者であるかが問題なのだ。
「分かった。君はロボットだ」
「はずれ。僕は血の通った人間だよ。生まれ方が君たちとは少々異なるだけさ」
二人は顔を見合わせて、同時に「クローン!」と叫んだ。こんなに似ている子供がロボットでなければ、クローン以外に考えられなかったからだ。
「当たり! いかにも僕は仁のクローンさ。だから正確には、君たちの知っている仁ではない。しかし、僕の心は仁そのものなんだよ。仁の脳神経回路のすべてをプリントされ、そこからスタートしたんだ。君たちとの思い出もすべて仁から受け継いだ。僕は仁なのさ。ガキのくせにこんなに大人びた喋り方をするのは、成長した仁の精神そのものである証拠なんだ」
「しかし……」といってから光輝はなにかを連想し、言葉を詰まらせた。〝大人びた喋り方〟という仁の言葉を聞いて、早苗も光輝と同じ疑念を抱いて動揺した。
「仁君はどうして、あなたをつくらなければならなかったの? というか、あなたに幹細胞を提供した本物の仁君はどこにいるの?」
「本物という言葉はナシさ。僕はニセモノじゃない。君が聞いたのは元祖仁君のことだね。きっと法律上は、世の中に僕は二つあっちゃいけないんだ。いろんなトラブルのもとになるからね。でも、君たちはオリジナルの仁に会う権利はあるだろう。さあ、僕に付いてきてくれたまえ」
仁は背の高い草を掻き分けながら草原を歩き始めた。草に触れると指が切れそうな痛さを感じるが、すべては仮想現実で、本物の草が生えているわけではない。仁の姿は時たま草に隠れて見えなくなるものの、ゾウが付いていたので見失うことはなかった。途中で、ヌーやシマウマの群れに遭遇したが、これはどうやらバーチャルな世界らしかった。一〇分ほどして仁は歩くことに疲れたみたいで、ゾウの鼻に乗って頭を伝い、背中に馬乗りになった。ゾウの通ったあとは草がなぎ倒され、歩きやすい。二人は仁をうらやみながら、また一〇分ほど歩くと小山が現れた。ゾウは直線的に坂を登っていく。仕方なしに二人も、ゾウの尻尾をロープ代わりに掴んで登っていく。頂上に出ると、遠く地平線まで続くサバンナを一望できたが、白大理石で化粧された大きなピラミッドが眼下に現れた。ギザのピラミッドほどもある大きさなのに、それを見下ろすほどの山は五分で登れたのだから、現実離れしたVRな世界に決まっている。それが証拠に、数分下っただけで、ピラミッド内部への入口にたどり着いた。
「君たちは、バーチャルなトリックに弄ばれて疲れたろう。しかしお付きの動物は本物だ。歩くのがいやならそいつらの背中に乗ればいいのさ。どいつもいい乗り物になるんだ」と仁。しかし、二人は天まで届くほどの巨大なピラミッドに圧倒されて声も出ない。加えて二人を襲ったのは、沈うつな気分だった。ピラミッドが意味するものは、墓以外の何ものでもないからだ。
花崗岩の台に寝かされている仁は、二人が最初に出会った虚像の青年だった。胸から下は花々に埋められ、美しい顔は、いまにも目が覚めるのではないかと思えるぐらいに生々しい。これは虚像ではないと、二人は確信した。
「彼はつい最近まで生きていたんだね?」
光輝は目頭を熱くさせ、顔を両手で覆いながら仁にたずねた。
「そう……、仁は君たちの結婚話を聞いて絶望し、自らの命を絶ったんだ。君と電話で話したのはこの仁だった」
仁は抑揚をわざと抑えるようにして事務的に答えたが、二人は驚きのあまり呆然として、しばらくは声も出せなかった。
「彼は昨日の夜、君に電話をした二時間後に自殺したのさ」
「いったい何で……」
早苗の声は震えていた。
「君に恋していたからさ」
「一〇年間も会っていない私に?」
「そう、恋愛感情は想像の世界で凝縮され、エッセンスになるんだ。彼が恋していたのは彼のイメージの中にいる君さ。それに……」
「それに?」と早苗。
「仁は二人必要ないんだ。花を除けて彼の手足をよく見てごらん。右手右足を失ったまま、しかも脊髄損傷で車椅子の生活だった。この時代に、手も足も、おまけに脊髄までも再生ができなかったなんて悲劇さ。彼はある種のアレルギー体質で、たとえ自分の組織でも、新しいものを受け付けなかったんだ。まるで家族以外の人間を受け付けなかったようにね。しかし、彼は立派に再生した。僕という形でね。だから悲しむことなんかちっともない。仁は死のうと思って自殺したわけじゃないんだよ。だって彼はちゃんと生きている。君たちの友達の仁は、この僕なんだからね。仁は未来を僕に託して消滅した。こいつは僕の抜け殻さ」
仁の言葉を聞いても、二人は遺体に近づこうとはしなかった。二人とも頭の中が混乱していて、わけが分からなくなっていたのだ。少しばかりの沈黙が続き、ようやく光輝は仁に提案した。
「僕たちはいま、仮想と現実の入り混じった世界にいるみたいだ。ここに仁の生々しい死体があって、そこに子供の仁が立っている。死体は現実だといっても、巨大なピラミッドは仮想だ。僕には何が現実で、何が仮想か分からない。君の話も分からない。一度、プロジェクションマッピングをダウンさせてから話し合うことにしようじゃないか」
「分かった」といって、仁は指を鳴らした。するとたちまちにして石室は上からガラガラと崩れ落ち、燦々とした太陽が顔を出した。ウソの世界はすべて崩れ去り、三人と六頭が広大な荒畑の真ん中にいることが分かった。ほんの五百坪ほどが黒い金属板で覆われていて、どうやらこの舞台の下に虚像を演出する装置が仕込まれているようだ。巨大な三次元スクリーンとなるフェンスは、千坪ほどの広さで舞台を取り囲んでいたが、墨色からみるみる透明になっていき、遠くに点在する家々が見えるようになり、その向こうには寂れた街もあった。豆粒のような車が遠くの道路を行き交っている、……けれどこれだって仮想現実かも知れず、仁を信じる以外にはなかった。
「僕たちは休耕地の中にいるんだ。しかしここは、僕にとっては夏の宮殿なのさ。夏になるとこの平土間に立って、仮想現実の中でじっくりと休養し、英気を養うようにしている」
しかし、そばに横たわっていたはずの死体が消えていた。光輝は元祖仁の遺体すら虚像だったと思い、怒りがこみ上げてきた。
「仁君の遺体はどうしたんだ。あれもウソじゃないか!」
「いやいや、しっかりとそこにあるさ。舞台の映像をダブらせて消してあるんだ。仁が昨日死んだことは秘密だからね。誰が見るとも限らないから、カモフラージュは必要だ。もちろん役所にも届けない。だって、仁は僕なんだからね」といって、仁はカニのように二メートルほど横に歩き、手招きした。光輝が仁の横に行くと、ストレッチャーに寝かされて首から下をシーツに覆われた元祖仁の遺体が確認できた。
「さあ、余興はこれで終わりだ。あの遠くに見える森が、本物の僕の家です」と仁は北を指差す。
舞台横の農道にはリムジンが控えていていた。仁がそっちに歩き始めたので、早苗は慌てて「仏様は置き去り?」と声を上げた。仁は無言のまま指をパチンと鳴らす。すると今度は巨大な前方後円墳が目の前に出現し、リムジンが飲み込まれてしまった。
「偉大なアダムは、王様の墓に葬るのがふさわしい」
「でも蛆が湧くぜ」と光輝がいうと、仁は振り返ってニヤリとわらい、「彼の死体は存在しない。歴史からも消えるのさ。君たちも忘れてほしい。仁は死んじゃいない。仁はこの僕なんだからね」と答える。光輝はいささかうんざりして、「遊びはやめろよ!」と語気を強めたので古墳はもちろん、遺体すらもパッと消えてしまった。
「やっぱ子供だ……」
華奢な早苗の両肩に、ヨーロッパからの長旅の疲れがドッとのしかかってきた。
(つづく)