03:中村千秋(23)の葛藤 前編
その日は仕事が終わりそのまま新幹線に乗って都内へと帰る気がしなかったので、タクシーを捕まえてふらりと酒場に寄っていくことにした。
仕事モードからきっちりオフに切り替えたいんだろうなと他人事のように考えて車を降り、飲み屋が連なる通りを歩きながら、扉や看板のフォントデザインを眺めつつ店を探していたら見つけた。
『CASABLANKA』
時計を見れば19:30。
開店は19:42と書いてあるが、ライトが着いているからもう入ってもいいんだろうな。
まぁ断られたら断られたで考えよ、と扉を開けば予想よりも若いマスター。
「もう開いてるの?」
「ハイ、開いてますよ。どうぞ、いらっしゃいませ」
店内は10人そこそこ入れば満席になるような狭さ。
覗いて誰か先客が居れば何も聞かずに帰ったかもしれない、一見では入りにくい客を選んでいる店だと思った。
ここなら浮き足立った観光客が来ることもないだろうけれど、もしも賑やかな、いかにも常連!みたいな客が来たらサッと帰れるよう左端へと座る。
無駄に絡まれるのも、それで写真でも撮られでもしてSNSにアップされるのも困るからだ。
あ、と思い店内を見渡す。
良かった、誰か有名人のサインがあるような店じゃなくて。
カウンターにあるメニューを見れば、やっぱり分かるやつには分かるだろっていうスタンスのようだ。
少し腹も減っていたので軽食とグリを頼む。
赤、白、ロゼだけじゃなくグリがあるなら食事とも合うだろう。
黒コショウがしっかり効いたローストビーフが挟まれたサンドイッチと、表面を少しチーズとバターでカリッと焦がしたマッシュポテトが美味しかった。
さりげなくパン生地に塗られていたワサビソースが広がる口の中を、モロッコワインでさっぱりと流し込む。
やっばい、美味いわココ。
次は何を頼もうかと完全にオフの時間を楽しみ出したら後ろからチリンと音がした。
ああ、今すっごい良い所なのに…これからの時間が吉と出るか凶と出るか。
違う人間に左右されるとか…ないわ~と勝手なストレスを、入ってきた他人へと向けた。
***
軽く会釈をし、追加でカナダのトマトワインと合鴨のスモークをオーダーする。
メニューには文字の羅列で目立っていないけれど、メジャーなものに隠れてマイナーなアルコールが何種類も載っている。
なんだろうな、「これ知ってるか?」っていうようなこの店の上から目線。
偉そうなのに心地いいのが不思議だ。
隣の客は、静かにしてるならいいかと思っていたら、やっぱり常連でマスターとの会話の声が少しずつ大きくなっていく。
声の大きさは、パーソナルスペースの確保。
自分の縄張りだというアピールだ。
それにマスターが合わせるということは、こちらがお邪魔しているヨソ者だと否応なく自覚させられる。
さて、食べたら出るかと合鴨をほお張っていたら、思わぬ会話劇に触発されてしまった。
アングラの舞台で見るような会話の応酬に刺激され、むずむずとしてくる。
もはや職業病だ。
これに混じって演じたいと思うなんて、完全にオフからオンにされてしまった。
聞き耳を立てていたら、最後はなんと歌って締めやがった!
思わぬ展開にワインを噴いてしまい鼻が痛くなった。
「し、失礼…」
ゴホゴホとむせながらもマスターから出された水でどうにか落ち着けば、どこか安心したようなイイ笑顔をこちらに向けて一緒に飲もうと誘われた。
一目惚れ、ではないけれど、こっちがむせるまで笑ったことで警戒を解いた隣の彼女に、親愛の情が芽生えた。