02:佐藤美雪(29)の憂いごと 後編
カマンベールと缶チューハイが入ったコンビニ袋をぶら下げて帰宅するのが当たり前になってきたこの2週間。
一人暮らしで話す相手もいないもんだからテレビに話しかけるのもサマになってきた気がする。
んー、それでも物足りないのは私は何を飲むかっていうより、どこで誰と飲むかの方が重要なんだろうな。
1階エントランスの郵便受けの中身をごっそりコンビニ袋に入れ込んでエレベーターで4階まで上がる。
高層階じゃない分、家賃も安いし、防犯と災害を考えれば私にはちょうどいい。
田舎者丸出しかもしれないけれど、はしご車が届かない高さに住む勇気はないなー。
鍵を開ければ私にぴったりな1LDKのお城。
リビングはそんなに広くないけれど、人をダメにするクッションを置いて寛げるんだから充分だろう。
温感ジェルのメイク落としで、ゆっくり化けの皮を溶かしていく。
毛穴もスッキリすればひとまずフェイスマスクをして缶を開ける。
1時間ほど晩酌タイムに充てて、翌日の準備をしてから寝る前にシャワーを浴びる。
お風呂はなぁ…浴槽洗うの面倒だからなぁ。
そろそろスーパー銭湯でもいこうかな。
そんなことを考えながらコンビニの袋の中を漁る。
ダイレクトメールやピザのチラシに紛れてハガキが1枚入っていた。
『味噌漬け燻製チーズ作りすぎた。そろそろ来い。』
「ぷはっ。それだけ?!」
他に書くことないのかあのマスターは。
住所は知っていてもお互い電話番号もSNSのIDも知らない。
そういえば周年記念もハガキで来たなぁ。
なんだかんだマメなんだよねぇ。
同窓会で幹事やらされるタイプだ。
――確かに、そろそろ人恋しい。
仕事でしか話すことがないから、そろそろアホな話もしたい。
明日にでも行くとして…
返信のハガキは午前中速達で出したら、私とどっちが先に着くのかな?
こういうしょーもない事って、どうしてこんなにもワクワクするんだろう。
お店の名前を打ち込んで検索して、店の住所を見つける。
お、☆3.83ってバーにしちゃなかなか高評価じゃない?
最近飲んでなかった美しいカクテルの写真を見て喉が渇く。
うん、やっぱり人生に美味しく楽しめるお酒は必要だな。
今夜は早く寝て、明日は定時で帰れるよう頑張ろう。
***
チリン。
涼しげに鳴る金属の音。
扉を開けて店内を覗き込めばいつも通り1番乗りで誰も居やしない店。
狭い路地の中にある階段を登った2階にある店なんだけど、1階に看板があっても入りにくいんだよねぇ。
『CASABLANKA』
『open19:42~』
最初はどんな紳士が出てくるかと思ったんだけど、居るのは海とか山とか男同士で自然のアクティビティ楽しんでるようなタイプのマスター。
聞けば店名も内装もマスターの趣味らしい。
見た目と内面のギャップがあっても…萌えないギャップってあるんですね。
いつも扉を開けた瞬間ちょっぴり残念な気持ちになる。
「毎回小さくため息ついてから入ってくるんじゃない、やっと来たか」
「厄払いと空気の入れ替え兼ねてるのよ、久しぶり」
左端に座ってカウンターの壁際に鞄を置く。
本日のフルーツから越後姫を選ぶ。
「初めて聞くんだけど越後姫って何の果物?」
「語感でわかんないか?いちごだよ。――俺も初めて聞くけど」
カクテルが出てくる前に、コトリと小物が出てくる。
「これ、お前のか?」
イヴサンローランの口紅。
嫌味がない程度に唇にのる華やかな発色と自然な艶の良さが気に入っていた。
「うん、多分私のだと思う。ありがと」
2週間前から見当たらなかったし、戻ってきても使う気になれないけど…ひとまず受け取る。
「はぁ、何やってんだよ。じゃあ手帳も持ってないって本当か」
スマホにも予定は書き込んでいるけれど、紙ツールが最強だと思って生きてきた。
手帳には仕事で頂いた名刺や、ふと思いついたアイディアを書き溜めていたりするので、無いとそれなりに不便だしお守り代わりでもあったんだなと最近気付いた。
「積極的に忘れていったわけじゃあないんだけどね、抜かれてたみたい」
指で口紅を転がしながら少しふて腐れてみる。
てか叱られてるけど、そんなに私が悪いのか?
こんなのマスターからすればよくある話じゃないの?
――私は初めてだったけど。
「しっかりしろよ、いくつだよお前」
「もうすぐ30ちゃい?」
バチーンとデコピンに処された。
「っいった!!超痛いんですけど?!」
「簡単に喰われてんじゃねー。…で、要るのか手帳」
「出来れば。口紅なんかより要る。イタズラに使われることはないとは思うけど、他社さんの個人情報漏洩させたくないし」
でっかいため息をこれ見よがしについて目隠しされた奥のキッチンへと引っ込む。
「ちょっと越後姫は」
「少しくらい待って反省しとけ」
反省、ねぇ…。
やっちまった!と頭を抱えた後は、仕方ないと割り切ってすでに2週間。
もう何をどう反省したものやら、とっくに過去の話になっている。
「1時間くらいで来るってよ」
「え。帰っていい?50分くらいで」
「アホか、自分のケツくらい自分で拭け」
「さすがに気まずいよ~~、マスター連絡取り合える仲になってるんだったら代わりに受け取ってくれてもいいじゃない~~」
「お前はヤることヤった仲だろうが!俺のほうが気マズいわ!」
「リックぅー」
「誰がリックだバカ野郎!」
いつものように軽口を叩いて平静で居られるよう努める。
マスターもこの話はとりあえず終わりということで、いつものように美味しいお酒と美味しいチーズで夜を味わうことにした。
***
チリン。
扉が開いてこちらに近づく人の気配がする。
横目でちらりと見上げれば、毎日見慣れた顔がそこにあった。
え、飲料水のCMのままじゃない?
マスクも無しでメガネだけとかナメてんの?
「店の外出るの怖っ!こんばんは」
「え、何で。こんばんは」
「いやだって、人気若手俳優そのまんまじゃないですか。ちょっとは食品偽装するような業者見習おうよ、餃子にダンボール混ぜろとは言わないけど」
「隠すほうがバレるんですよ、それに餃子だって予め裏書きにダンボールって書いておけば問題なさそうですよね」
「わかってて食べるやつは居ないだろ、何飲むんだ」
「でもほら、俺だってわかってて食べましたよね?じゃあモロッコの地ビールを」
ゴン。
テーブルに思いっきり頭打ち付けてしまった。
まさかのドストレートパンチ。
「…え?私が襲ったの?ふつーにカサブランカって言えばいいのに」
「いえ、襲ったか襲われたかと言えばどちらとも言えない素敵な夜でしたよ。カサブランカでカサブランカって言うの恥ずかしくないですか?」
「おい、置いてる俺が恥ずかしい奴みてぇじゃねーか。つか具体的な話されるほうが恥ずかしいって事お前ら分かれ」
「いやぁ、いい店ですよね」
「ほんとほんと。ひっそりとした隠れ家なのに、この開放感さいこー」
お前ら似たもの同士だな、なんて言われながらこの前の夜の続きのようにお酒がとろりと喉を通り過ぎていく。
何気ない会話を楽しんで平静を装っているけれど、こっちは演技なんて子どもの頃のおゆうぎ会以来だ。
日本のビールのほうが美味しいとは思うけれど、カサブランカの瓶ビールをグラスを使わず右手で口を付けている姿は色っぽく、絵になるし見とれていたい。
ドラマや舞台を観るくらいの距離がちょうどいいと改めて思っているのに、そんなことは赦さないとカウンターの下で彼の左手は私の内腿を撫でてゆく。
身体の芯から刺激されたように焦らされ、思わず内腿を摺り寄せ彼の手を挟んでしまう。
それでも肌を撫でることを止めず這う手から逃れるために脚を組んで完全に挟んで動きを止めさせれば、目だけで微笑まれた。
ああ、今夜も喰われてしまう。
もうすでに身体の奥から湧き上がる熱には抗えなくなっていて。
気付いた時には、もう遅い。