01:佐藤美雪(29)の憂いごと 前編
生のフルーツをふんだんに使ったカクテルと、美味しいチーズ。
話しても話さなくても気まずくならないマスター。
ここだ!と思って通い始め、馴染みの店と言えるようになるまで約半年。
もう親戚のお兄ちゃん家じゃないかなここ、と思うようになって約1年。
カウンター5席にテーブル3卓。
満席なのは週末くらいなので、主に平日に顔を出す。
週に1回か2回のちょっと贅沢な時間。
カウンターの左端が指定席。
仕事終わりに頭の中を空っぽにしたくて寄っていく。
昨夜は先客が1人居た。
バーにしては早い時間に立ち寄るため、いつもだいたい私が1番乗りで1人飲んでいたら帰るまでに2、3人増えていることもあるかな?という感じなのだけれど、この1年で初めて!私より早く飲んでいる先客が居た。
しかも左端。
マスターと目が合えば「悪ぃ」と片目を瞑られたが、まぁ気にしない。
どちらかと言えば下手なウインクで和んでしまった。
そしてカウンターは5席。
カフェなら端と端で座るだろうけれど、バーでその距離感は正直無しだ。
だからと言ってイキナリ「お隣いいですか」なんて言えるほどの社交性もない。
気を使わずに飲みたいのに何故見知らずの他人に気を使わねばならないのか。
そんな可愛げのない思考してるからモテずに一人で飲み歩く羽目になるんだけれど。
よって、お隣さんに軽く会釈をし、堂々とド真ん中に座って、メニューにある本日のフルーツからアレキサンドリアを選んだ。
ブドウの女王様と謳われるプリップリの実がどうカクテルに変身していくのか、今夜も楽しくカウンター内を覗きつつ、動揺しないように気をつける。
会釈して気付いたんだよ。
後姿じゃあわからないもんなんですね。
マスターと念話…出来てるような気がする。
『…この人、あれでしょドラマとか映画に出てる俳優さんでしょ、何でこんなとこいるの!』
『俺の城をこんなとこって言うな!何か来たんだよ!客は選べないんだから仕方ないだろ!』
こんなことなら右端座ればよかった…。
庶民が小銭握り締めてデトックスしに来てるんだから、テレビの中の人はテレビの中に居てて欲しい…。
「あ、マスター吊るしベーコン5キロありがとう。おかげで冷凍庫死んだわ」
「その返礼品の味噌10キロは嫌がらせだろうが!ありがとうございました」
無駄に仲良くなり過ぎて、家の場所は知らないけど旅行に行ったらお互いお土産を送る住所くらいは知ってる仲になっている。
私は全く参加していないけど、マスターは店の客とフットサルしていたりバーベキューをしたりと何かと人の輪を広げている。
たぶん、ベーコンはいつものバーベキューで余ったんだろう。
悔しいので常温で日持ちするものをお返ししたというわけだ。
平常心平常心と唱えながらいつも通り話していれば、薄暗い店内ということもあり左隣の存在感は…なんとなく薄れていく。うんその調子で薄れろ。
少ししてから出されたグラスには薄いグリーンのグラデーションで、底にはキラキラの宝石のような実。
「これもうカクテルっていうか…上アイス乗ってるね?パフェじゃない?」
「え、たまに食べたくならん?パフェ」
「え、飲みに来てるってのに?」
まぁまぁ、と言いながらさらに生クリームのスプレー缶を吹き付けられる。
「サービスサービスぅ♪」
「太るでしょうがっ」
「肥えて~肥えて~「肥えぇぇてぇ~~♪」」
某デュオ歌手のようにマスターとハモったあたりで隣が噴いた。
すみませんね、アホなマスターと客で。
店はカッコつけた内装だけど、ここはアホな客しか来ないよ!
「お兄さんも1杯どう?同じカロリー摂取しようよ~っ一緒に糖質地獄に落ちて~~」
さっきので笑ってくれるならこの店で出会えたのも多生の縁ってことで、一晩限りだとしても仲良くやれそうな気もするんだけどな、なんて思って同じカクテルをもう1杯注文したら左端から1席、こちらに寄ってきてくれた。
うーん、店内が薄暗くて良かったかもしれない。
これだけ暗くても眩しい美形って、太陽の下だと失明してしまうわ。
***
きゅんきゅん鳴く声で目が覚める。
目の前にはふわっふわの白いわんこ。
「へぶしっ!」
動物アレルギーっていうわけじゃあないんだけど…
多分鼻の穴にわんこの毛が入った。
女子力皆無、おっさん力全開のくしゃみにわんこがビクッと後ずさる。
「ごめんごめん、てか鼻に毛が入るほど顔に近寄っちゃいけませんよ」
「きゅーん」
ショボンとするわんこ。
うん、わかってくれたならいいのよ。よしよし。
よしよしと撫でながら状況把握に努めている。
わんこを撫でる手は止まらない。
ベッドサイドに時計があってよかった。
安心要素その1、まだ6時だ。無断欠勤にはならなさそうだ。
安心要素その2、化粧とコンタクトは取ってあるみたい。
もう20代も後半戦に入ってくると洗顔、クレンジングの重要度は増してくるからね。
安心要素その3、心臓がバックンバックン動いてるから死んでないね。
生きているだけで丸儲けってどこかのお笑い怪獣さんが言ってたし。
と、いうことで。
ここはどこですか。
私の家じゃあないんですけど。
「きゅーん」
わんこを撫でる手が止まらない。
いつもみたく1杯2杯で終わらず、思いのほか盛り上がって飲みすぎた、ような気がする。
ホテルのナイトウエアみたいなのを着てはいるけれど、ブラもパンツも穿いてない。
乳首も硬く尖り、下半身にも、まだそこに在るかのような痺れる感覚が残っている。
わんこをそっと離し、頭を抱える。
「完全にアウトじゃないの…」
「きゅー…ん」
お酒での失敗なんか学生時代に友達のバイト先で吐いたくらいしかないから油断した…!
それ以来悪酔いしたこともないし、こんなコトも無縁なくらいモテたりしていない人生だ。
唯一の救いは今彼氏がいないことか。
うん、誰も傷つけていないなら良しとしよう。
ポジティブにいこう、不幸中の幸いだ。
よし、そうと決まればここをとっとと出よう。
家主は居ないのだろうか。
わんこ以外の気配がしない。
てか誰の家だろう。
あるとすれば、1枠マスター、2枠一緒に飲んだ俳優さん、3枠犯罪者含むその他。
ここを出て電柱の住所でも見ればマスターかどうかはハッキリする。
とりあえず、出てもいいよ、ね?仕事もあるし。
ベッドから降りれば、わんこも降りてついてくる。
「ごめんね、心配かけて。あ、知らない人間が居て怖かったでしょう」
「きゅーん」
しっぽをパタパタと振りながらついてくる。
不審者とは思われなかったようで何よりか。
さすがに噛まれたら痛いだろうしね。
ベッドルームを出ればL字のソファにうちの倍はあるテレビのあるリビング。
「うわぁ…うちより広いキレイお洒落」
ソファの前にあるローテーブルには、ランチマットの上にトレイがあり、
ホコリが入らないよう裏返されたカップに、ラップしたサンドイッチが置かれている。
ソファには私の鞄と充電中のスマホ、―――着替えが2種置かれている。
昨日着ていた服と下着と、トレーナーとスウェット。
トレーナーのほうを選べば、ここで家主を待っていてもいいということだろう。
わんこがソファに登り、こっちの服の横でお座りして尻尾をさっきよりも激しく振っている。
あざといな、仲間になれってか。
「起こしてくれてありがとうね」
ふわふわの柔らかな毛並みを撫で愛でてから着替える。
サンドイッチは冷蔵庫に閉まって玄関へと向かう。
部屋はオートロックのようで一安心だ。
「きゅーんきゅーん…」
しな垂れた尻尾を見れば罪悪感が芽生えるけれど。
いや、ふつー帰るでしょ。
「ごめんね、来世は君みたいな優しいコに似合うよう、心を漂白剤で洗って出会い直すからね」
最後にぎゅっとふわふわのわんこを抱きしめてから扉を閉めた。
玄関から出ようとしない、賢いわんこだ。
私もこんな可愛くて賢いわんこ飼いたくなった。
外に出れば、私が寝ていたのはバーから少し離れた場所にあるマンションだと分かった。
住所からして1枠マスターの線は消えた。
よっ…良かったぁ。
マスターと何もないなら飲みに行ける。
デトックス場所が無いなんて精神衛生上よくないからね。
またイチから店探しなんて、大変だからしたくないし。
でも、しばらく禁酒だなー…。
どうしても飲むなら家飲みかぁ。