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帰りの馬車でのことです。私たち兄妹はエリーゼ様のご厚意に甘えて、公爵家の六人乗りの豪奢な馬車に同乗させてもらっておりました。
「レオポルド、今日のことを説明なさい」
エリーゼ様は扉が閉まるやいなや、話し始められました。
「何のことでしょう」
悪魔は恐ろしいほどに上機嫌でした。
「あの子はギルバートの婚約者候補だったのですよ」
「あの子、というのがアンのことでしたら、候補だっただけで、今では私の婚約者です」
「まだ私は認めたわけではありません」
「反対されるのですか?」
悪魔の機嫌は急降下しました。
馬車内での魔力発動は本当に生きた心地がしなかったです。動く馬車に逃げ場などないのですから。
「反対しているわけでは。ただ説明してほしいと、母は言っているのです」
エリーゼ様が悪魔の魔力に怯むことはありませんでした。
「そもそも母上は今日、ギルバートだけでなく、私たちの婚約者候補も探していたのでは?」
「それはそうですが」
「母上の願い通りに、私が婚約者を見つけた、それだけのことです」
「しかし、あの子には、いえ、伯爵家には、陛下からの婚約の打診がすでにあり、そして、先ほどもあの子を見つけたのは、レオポルドよりギルバートが先だったではないの」
エリーゼ様は少しだけ感情的になられておいででした。どんな手を使ってでもほしいものを手に入れようとする悪魔を諫めようとなさっていて、しかし悪魔がまったく聞く耳を持たないので、いら立たれていたのだと思います。
「母上、まずはアンのことをあの子などと呼ぶのをおやめください。それから、婚約を打診していた事実があったとして、ギルバートが私より先にアンを見つけたとして、私とアンの婚約に何の問題があるのです?」
「問題はあるでしょう」
エリーゼ様の怒りが馬車を揺らしました。エリーゼ様の魔力がもれ出すのを、私は初めて感じました。そして恐怖しました。悪魔とエリーゼ様が馬車の中で魔力をぶつけ合ったらどうなるのかと。しかしそれは杞憂に終わりました。悪魔がエリーゼ様の魔力を抑えてしまったのです。
「早い者勝ちですよ」
悪魔は不敵に笑いました。
「早い者勝ちというなら、ギルのほうに軍配が上がるのではないのか?」
ルイーズ様が冷静につっこまれました。
「兄上」
悪魔がフッと、鼻で笑いました。
「たくさんのケーキが並んでいて、その中に特別なケーキが一つあると伯父上は知っていた。伯父上は自分の息子のギルバートにそのケーキを食べさせたいと思っていた。そしてその特別のケーキをギルバートは見つけた。しかしそのケーキを実際に手に取り、食べたのは私だった。ケーキを見つけただけでは早い者勝ちは成立しない。お腹におさめた時点で早い者勝ちになるのですよ」
ひどいたとえでしたが、私は納得してしまいました。ルイーズ様もそうであったのか、口を噤まれました。
「レオポルド、では訊きます」
「何でしょう、母上」
「あの子が、いえ、アン嬢があのような愛くるしい外見だったから、婚約者に望んだのですか?」
このときまで、私たちは悪魔がお嬢様の天使のような外見の虜になったのだと思っておりました。
「母上は息子を見くびりすぎです。たしかにアンはこの上なくかわいい。しかしそれだけで、自分の伴侶に望むほど、私は愚かではない」
「ではアン嬢のどこを気に入ったと?」
「気に入ったなんて言葉では足りない。アンの存在そのものが、私にとっての祝福なのです」
「祝福ですって?」
「ええ。母上も兄上も私がこの身に宿す膨大な魔力のせいで苦しんできたことはご存知でしょう?」
エリーゼ様もルイーズ様も悪魔の言葉に切なげに頷かれました。ある程度の魔力制御ができるようになるまで、悪魔が並外れた魔力に振り回されつづけてきたことは、私ですら知っています。
悪魔は五歳頃まではほとんどベッドから出られず、十歳当時でも年に何度も高熱を上げて寝こんでいたのです。しかもその熱は魔法熱といって、治癒魔法が一切効かない類のもので、ただ魔力の嵐がすぎ去るのを待つしかなかったのです。それに、自分が抑えきれなかった魔力が物を壊し、人を傷つけてしまうのに、小さい頃の悪魔は心痛めていました。それが今では魔法熱を出すこともなくなり、自分の意にそわないと、物でも人でも破壊するのに躊躇がない正真正銘の悪魔になってしまいましたが。
「私は幼い頃から魔力制御を教えこまれてきました。そのために自分の感情を見失うほどでした」
魔力は感情に左右されるので、魔力持ちに感情の制御は必須です。そしてその魔力が多ければ多いほど、制御が難しいのは自明の理。
「苦しい日々でした。いえ、苦しいという感情すら、今日まで忘れてしまっていました。そういうふうに思いこまされてきたのです。そうですよね? 母上」
エリーゼ様は沈痛な面持ちで悪魔を見つめていらっしゃいました。幼い悪魔に感情制御を徹底させるために、厳しい訓練を強いてきたのはエリーゼ様です。しかし悪魔が苦痛に耐える姿を見て、エリーゼ様が平気でいられたはずがありません。その胸の痛みを思い出されていたのでしょう。
「それでも、感情を失うほどに自分自身を制御しても、完璧には魔力を操ることができなかった」
私の目には完璧に見えていたのですが、魔法熱を頻繁に出していたのですから、完璧にはほど遠かったのかもしれません。
「母上も兄上も、魔力が自分の中を流れるのを快く感じているのでしょう? たいていの魔力持ちはそうだと聞きます。しかし私の場合、魔力が流れるというよりも、私の中で魔力は蠢いているのです。私がいくら抑えようとしていても、今にも暴れ出しそうに私の中で騒いでいる。私の魔力は、いつ暴発するかもしれない爆弾です。そんな危険なものを私は身の内に抱えて生きてきた」
私の魔力は微量なので、さわさわと心地よい流れを感じるのみです。悪魔の感じる、蠢くという魔力は想像もつきませんでした。
「それが今日、王宮に入ると、いつになく自分の魔力が落ちついていることに気がつきました。何度も王宮へは行っているのに、初めての感覚でした。ついに自分の魔力を完全にコントロールできるようになったのかもしれない、そう思っていました。アンを見つけるまでは」
誰も口を挟みませんでした。
「ギルバートが立ち上がり、その視線の先にアンを見つけたとき、私は流れる魔力をあたたかく感じました。いつもの燃えたぎるような熱さではなく、心地よいあたたかさ」
悪魔が表情を和らげました。お嬢様のことを思い出していたのかもしれません。
「私は気がつくと、アンの前にいました。そしてアンにふれたとき、私の魔力が初めて私に寄りそってくれたように感じました。それまで私から離れていこうとしていた魔力が私のものになったとでも言えば伝わるでしょうか」
あの悪魔があのときばかりは誠実に語っていました。私たちにわかってほしいと真摯に訴えていました。
「アンという存在が私の灼熱の魔力を穏やかにしてくれたのです。それは生まれて初めて私に訪れた安らぎでした。この安らぎがなければ私は生きていけないと思いました。そしてアンを私のものにしなければならないと強く思ったのです。ギルバートなどには絶対に渡せないと」
悪魔の思いの強さが痛いほどに伝わってきて、私の中に不可思議な熱情がわき起こりました。あの大嫌いな悪魔にまるで共鳴するかのように、悪魔にはお嬢様が絶対に必要だと、悪魔とお嬢様が結ばれるべきだと思ってしまったのです。今でもどうしてそんな状態になってしまったのかはわかりません。
「アンへの求婚が卑怯だったという非難は甘んじて受けましょう。しかしアンは私の唯一なのです。ほかの誰に渡すことができるでしょう。物語の言葉を借りるなら、アンとの出会いは運命で、アンは私の魂の伴侶なのです」
エリーゼ様は泣いていらっしゃいました。
エリーゼ様はのちに教えてくださいました。息子がそれまで安らぎを知らずにいたことが哀しく、そしてそれに気づけなかった自分への嫌悪、そしてわき上がる罪悪感に胸を潰されそうだったと。そしてそんなエリーゼ様を慰めるように、あのとき悪魔が聖の魔力を放出していたのだと。それがうれしくてエリーゼ様は泣いてしまったのだと。そしてそんなやさしい魔力を発動したのが初めての悪魔は、自分の魔力の放出に気づいていなかったのだそうです。
あの日の帰り道、そんなふうに悪魔がお嬢様との出会いを語ったことをお嬢様は知りません。お嬢様は自分と悪魔の婚約が政略に基づくものだと思いこんでいらっしゃるのです。本当は悪魔が狂おしいまでに激しく自分を求めていることに、お嬢様はいつの日か気づかれるのでしょうか。