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「アニーは魔力を嗅げるらしい」
悪魔の言葉の意味が理解できません。魔力に匂いなどないのですから。
「アニーのその類まれな能力のおかげで命拾いしたというのに、感謝の気持ちが足りないぞ、セレナ」
「……はい」
お嬢様が悪魔を呼んでくださったことには、もちろん感謝しているのですが、魔力を嗅げるということがよくわからないのです。
「魔力に匂いがあるかどうかはまだわからない。ただアン様が魔力を匂いとして感じられているということは間違いなく本当なのだ」
兄様の説明で、やっと理解が追いつきました。
「アン様のこれまでの言動を振り返っても、この話は信憑性が高い」
「レジナルド、アニーの言葉が真実なのだから、信憑性が高いという言い方は不適切だ」
「申し訳ありません。私にはアン様の言葉のすべてを盲目的に信じることはできかねます」
「ふん」
兄様のこの態度は侍従としてはどうなのでしょうか。悪魔が許しているのだから、問題ないのですよね?
「とにかく、アニーは魔力を嗅げるのだ。セレナにも見破れなかった刺客の正体に、アニーは匂いだけで気がついた」
魔力は私にとっては感じるものです。悪魔のような魔法使いは魔力が見えているらしいですが、匂いなどしないというのが常識です。
「アニーは私がキャサリンだと、匂いで気がついていたろう?」
どうして悪魔はどや顔をしているのでしょうか。もしもお嬢様が本当に匂いで悪魔とキャサリン様が同一人物だと確信してしまわれたら、困るのは悪魔ですよね?
「アニーの愛なのだ」
意味不明な悪魔の言葉に、私は開いた口が塞がりません。
「香水などでは、アニーの愛はごまかせない」
誰か悪魔の暴走をとめてください。
「まあ、私も愛の深さでは負けないけれど」
なぜ悪魔は人の部屋で勝手に愛を語り、赤面しているのでしょうか。
「レオポルド様、私が説明を変わっても?」
悪魔の説明が渋滞しているので、兄様が交代してくれるようです。
「アン様にとって、ラウルはグレープフルーツに蜂蜜をかけたような甘酸っぱい匂いだそうだ。セレナが刺客に襲われたとき、アン様は風に乗って漂ってきた匂いが、ラウルのものではないと気がつかれた。それでレオポルド様を呼んだ」
ラウルはとてもよい香りなのですね。そしてあのとき、風が吹いていなければ、私は助かっていなかったのかもしれません。
「その話を聞いたとき、セレナからラウルの匂いがすると、アン様が言われたときのことを思い出した。魔力は魔法や肉体的接触でうつったり、痕跡が残ったりする。あのときのセレナがラウルの魔力を纏っていてもおかしくはない」
急激に羞恥心が駆け上がってきます。
肉体的接触という言葉は淫靡な香りがします。私とラウルがしたのはただのキスなのですと、誰にも聞こえないのに心の中で言い訳してしまいました。
「それからレオポルド様とキャサリンは同一人物なのだから、似た匂いがするというのも頷ける」
香水で消すことができない匂い。魔力が匂うとしたら、香水では隠せないのではないでしょうか。
「そして私とセレナ」
「兄様と私?」
「ああ。私たちの匂いは似ているらしい。胡桃クッキーだそうだ」
「まあ、おいしそう」
「私のほうが少し焼きすぎた匂いがするらしい」
お嬢様の世界は私の知る世界よりも香りであふれているのかもしれません。
「殿下方とレオポルド様はそれぞれに違いはあるが、森の匂いがするらしい」
「森ですか?」
「ああ。セドリック殿下の森には雨の匂いが混じっていて、ギルバート殿下の森には太陽の匂いが濃く、レオポルド様の森は……いい香りがするそうだ」
今、兄様が一瞬迷われたのが気になります。
「レジナルド、きちんとアニーの言葉を伝えないと」
急に口を挟んできた悪魔の口調が気になります。兄様が目をそらしたのも気になります。私は耳を塞いだほうがよいのではないでしょうか。
「アニーは私の匂いを」
悪魔がもったいぶっています。そのまま黙ってくれてよいのですよ。
「森の中で生まれた恋の匂いと言ったのだ」
ああ。悪魔はこれが言いたくてたまらなかったのですね。鼻の中が見えそうなくらいに、鼻の穴を広げないでください。
「恋だぞ」
聞こえていますよ。返事をしたくないだけだと、わからないのですか?
「まあ、恋の匂いなど、頭の悪いセレナには理解できないのだろうな」
「……はい。すみません」
お嬢様が悪魔から恋の匂いを感じているなど、聞きたくも、知りたくも、信じたくも、ないのです。
「まあ、アン様から聞けたことはこれくらいだ。セレナが起きるまで何も考えたくないとおっしゃって」
「まあ」
「だからアン様に元気な顔を見せたら、匂いのことについて訊ねてみてほしい。アン様は変身魔法を使う刺客の正体を見破ることができる、唯一の存在かもしれない」
兄様の言葉に私は頷くことができませんでした。