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「レオポルド!! 何をしている!!」
そこへ救世主が現れました。悪魔の祖父君、マクロス様です。マクロス様は当時まだ王宮内にある魔法騎士団に常勤でいらしたので、悪魔の魔力放出を感じてすぐに転移してきてくださったのです。
「陛下、申し訳ございません」
マクロス様は不穏な魔力の風を治め、陛下の髪を元に戻されました。
「レオ、ポルド、さま……」
お嬢様は突然現れたマクロス様に驚かれ、すべての元凶の悪魔の腕に縋りつかれました。
「大丈夫だよ、アン。私がついていれば怖いことなんて何にもないのだから。それにこれは余興なのだよ」
悪魔はお嬢様の頭を愛おしそうに撫でながら言いました。
「よきょう?」
「そう。お遊びのことだよ。魔法使いがパーティーを盛り上げるために、やっただけ」
「まあ、そうだったのですね。王きゅうのパーティーはすごいのですね」
お嬢様がパッと表情を明るくされたのを見て、悪魔は目尻を下げ、お嬢様の頬を大事そうに撫でました。それからマクロス様を見上げました。
「お祖父様、私のかわいい婚約者が怯えています」
悪魔はマクロス様に対しても不遜でした。
「ほう。当主の私が知らないうちに、お前は婚約したのか?」
当時まだマクロス様がサターニー家の当主でいらっしゃいました。
「まだ正式には婚約しておりませんが、互いの気持ちは固まっております」
悪魔はまだしも、たった六歳、しかも初対面のお嬢様に婚約の意志があったはずがありません。
「エリーゼ、説明を」
マクロス様はエリーゼ様に説明を求められました。
「……今日はこの子たちの婚約者候補を探していて」
エリーゼ様は殿下方に視線を向けられ、呆然自失のギルバート殿下を見て、悲しげに眉を寄せられました。
「それでそのご令嬢をレオポルドが見初めたみたいなのです」
「見初めたとな、ではただのお前の独りよがりではないか」
マクロス様が正論を述べられました。
「マクロス」
そこで息を吹き返した陛下が参戦されました。
「はい、陛下」
「アン嬢は元々、ギルバートの婚約者候補なのだ」
マクロス様は悪魔をじろりと睨みました。悪魔はマクロス様を睨み返したあとで、展開にまったくついてこられていないお嬢様へ極上の微笑みを向けられました。
「大丈夫だよ、アン。皆、ちょっと誤解しているだけだから。アンは私の婚約者で間違いないからね」
お嬢様はあのとき、しっかりと理解されていたのでしょうか。されていなかったに決まっています。だってお嬢様は悪魔に向かって、微笑みを返されたのですから。
「カーター伯爵」
「はい、陛下」
陛下に呼ばれて、旦那様がお嬢様のそばまでいらっしゃいました。
「アン嬢は我が息子の妃にくれると約束したよね?」
旦那様がすぐに頷けなかったのは、悪魔が魔力で威圧したからです。しかしその威圧はマクロス様によって、すぐに無効化されました。当時はまだ悪魔はマクロス様には敵わなかったのです。
「どうなのだ、伯爵」
マクロス様にも問われ、旦那様が重い口を開かれました。
「陛下からは、アンを殿下方のどちらかの妃にとの打診がありました」
陛下が満足げに頷かれました。お嬢様はことのなりゆきについてゆけず、旦那様をじっと見上げておいででした。
「伯爵はこうおっしゃっているが、レオポルド」
悪魔はマクロス様に睨まれてもどこ吹く風で、お嬢様に訊きました。
「アンの婚約者は私だよね?」
「…………」
「アンは私のためにそのドレスを着てきてくれたのでしょう?」
「…………」
「そのドレスの色は私の瞳の色だよね?」
お嬢様が悪魔の瞳をじっと見つめて、それからドレスをちょこんとつまんでご覧になって、そして神妙に頷かれました。
「婚約者の私のために着てくれたのでしょう?」
「……お母さまが、今日はアンのだんなさまになる人に会うから、おめかししましょうねと言ってきせてくださいました」
悪魔が満面の笑みで言いました。
「ほら、私のためでしょう?」
お嬢様が満面の笑みで答えました。
「はい」
お嬢様が悪魔の姦計に陥った瞬間でした。
「アンは私が婚約者では嫌?」
悪魔はわざとらしく、眉根を寄せ、不安そうに訊きました。
お嬢様はぶんぶんと首を左右に振られて言いました。
「わたしはレオポルドさまがこんやくしゃで、とってもうれしいです」
黙っていられなかったのでしょう。陛下が口を挟みました。しかしそれはもう遅すぎました。すでにお嬢様は悪魔を自分の婚約者と認識してしまっていたのですから。
「アン嬢はレオポルドのどこがいいんだい? ここにいるセドリックやギルバートのほうがずっとやさしく、優秀だぞ」
陛下に促され、二人の殿下をお嬢様が見つめられました。絶世の美少女に見つめられて、セドリック殿下はうつむき、ギルバート殿下は恥ずかしさのあまり両手で顔を覆われてしまいました。それを見てお嬢様は切なげにため息を吐かれ、陛下に視線を戻されました。私たちは知らなかったのです。あまりに愛らしく生まれたがゆえのお嬢様の苦悩を。
「レオポルドさまはとてもおやさしいです」
「どこが?」
誰もが心の中でつっこんでいたことでしょう。
「レオポルドさまはわたしをじっと見つめてくれます。お友だちはみんなわたしと目があうと、ぷいっと目をそらしてしまうので、わたしはいつもかなしいのです。でもレオポルドさまはおやさしいから、わたしから目をそらしません。それにレオポルドさまの手はとってもあったかいです」
そのお嬢様の答えを聞いて頬を上気させた悪魔は、お嬢様の前に跪き、お嬢様の手のひらへ口づけました。
「アン・カーター嬢、私、レオポルド・サターニーと結婚の約束をしてくださいますか?」
お嬢様はキスの落とされた自分の手のひらを見て少し不思議そうに首を傾げられました。それから悪魔を見つめ、悪魔の微笑みに応えるように、天使の微笑みを浮かべられたのです。あのときのお嬢様の戸惑いは手のひらへのキスの意味をご存知なかったからでしょう。恋愛になどまったく興味のなさそうだった悪魔がよく知っていたものです。手の甲へのキスは敬愛や親愛、手のひらへのキスは求愛だということを。
「アン?」
悪魔は催促するようにお嬢様の名前を呼びました。
「はい」
お嬢様は何を求められているのか気づいていらっしゃいませんでした。
「アンは私と結婚してくれる?」
悪魔はもう一度、今度は簡潔に言いました。
「はい。よろこんで」
お嬢様の返事に悪魔は立ち上がり、それからお嬢様のおでこへキスをしました。あの頃の悪魔はお嬢様と身長が同じくらいだったので、思いきり背伸びをして。
一連のプロポーズはまるでお芝居のようでした。いえ、あれは悪魔による自作自演のお芝居だったのかもしれません。
「アン」
悪魔はお嬢様を抱きしめて、愛おしそうに名前を呼びました。これをお嬢様は催促と勘違いなされたのです。お嬢様は悪魔の頬へ「ちゅっ」とかわいらしいキスをされました。今のお嬢様がそんなことをなさったら、悪魔の時間が静止すること間違いなしですが、子供時代のお二人はところかまわず、べたべたちゅっちゅしていたものです。それは悪魔が学園に入学する頃まで続きました。悪魔がお嬢様へ適切な距離を取るようになったのは、多分、悪魔がお嬢様を女として意識するようになったからだと思います。それに対して、初めから悪魔を男性として見つめていらしたお嬢様が、悪魔の態度の変化を淋しく感じていることなど、私は悪魔に教えてあげる気はありません。
「うおっほん」
二人のラブシーンは陛下のわざとらしい咳払いで幕を下ろしました。
「伯父上」
悪魔は陛下をじっと見上げました。もちろんお嬢様の手を離さずに。
「馬に蹴られて死んでみますか?」
悪魔の完全なる不敬を誰も咎めませんでした。そして悪魔はお嬢様の手を引いて、歩き出したのです。
私たちは悪魔がお嬢様を攫っていくのをただ見ていました。陛下も旦那様も金縛りにでもあったかのように動けませんでした。そしてマクロス様は動きませんでした。今思うと、マクロス様は悪魔の暴走をとめるためにいらしたのですが、悪魔の婚姻には反対ではなかったのだと思います。それどころか、マクロス様は悪魔とお嬢様が婚約されることを歓迎されていたような気がします。あんなにわがままで傍若無人な悪魔でもマクロス様にとってはかわいい孫息子なのかもしれません。
「アン、あちらにおいしいケーキがあるよ……」
その先は私には聞こえませんでした。
あのあと、陛下たちは挨拶の続きを受けられましたが、エリーゼ様以外は、皆様、うわの空でした。
陛下はご自身の無力さを噛みしめていたかもしれません。ちなみに基本的に悪魔にやられっぱなしの陛下ですが、悪魔ほどではないにしろ、魔力量はかなり多いです。魔法科をトップクラスの成績でご卒業され、治癒魔法においては国内有数の使い手でいらっしゃいます。しかしどうしてか、生活魔法と治癒魔法しかお使いになられないのだそうです。攻撃魔法は壊滅的らしいのですが、治癒魔法では奇跡的なお力を発揮されるのです。そんな陛下を私たち臣下は、癒しの王として、敬愛しております。
旦那様は王家ほどではないにしろ、公爵家筆頭のサターニー家と縁を結ぶことになって、あのときは喜ばれていたそうです。あのときは、ですが。
ギルバード殿下は意気消沈なされておいででした。陛下にも無理だったのですから、お嬢様を悪魔から取り返すことができないことはもうわかっていたのでしょう。それでも、お嬢様を目で追ってしまうのをやめられないようでした。お嬢様と悪魔が楽しげにケーキを食べさせ合うのを、手をつないで散策し、時おり頬を寄せ合うのを、そしてこちらの視線に気づいた悪魔がこれ見よがしにお嬢様をハグし、頬へキスを落とすのを、ただ黙って見つめていらっしゃいました。
エリーゼ様はそんな傷心のギルバード殿下のためにと、令嬢ハントに尽力されましたが、当の殿下にその気がないのですから、すべて空振りに終わりました。
ちなみにセドリック殿下とルイーズ様は悪魔の所業を目の当たりにして、すでに疲れきっており、お相手探しどころではないご様子でした。
あの日結局、パーティーがお開きになるまで、悪魔はお嬢様を離しませんでした。
私たち兄妹はといえば、まだ知り合ってもいないお嬢様の将来を心密かに心配しておりました。あの日の私たちがどれほどお嬢様の身を案じていたのか、お嬢様は一生気づかれることがないでしょう。