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お嬢様の後ろで、やっと悪魔が自分を取り戻したようです。
「アニー」
「はい、レオ様」
お嬢様、そんなに悪魔に名前を呼ばれるのがうれしいですか?
「これを」
悪魔がベビーピンクの包み紙に金のシフォンリボンを巻いた箱をお嬢様へ手渡します。
「開けても?」
お嬢様、ですから、その殺人的な上目遣いはやめたほうがよろしいかと、せっかく魂が戻ったのに、また悪魔が幽体離脱してしまいますよ。
「ああ」
悪魔が得意のそっぽ向きをします。お嬢様はリボンをとくのに夢中で気づきません。
お嬢様は不器用なので、いつまで経っても箱を開けられません。
「お嬢様、包装がきついようです。爪が傷んでしまいますので、私が代わっても?」
お嬢様は頷いて、私に箱を渡してきます。
すぐに箱が開きます。中身はネックレスです。お嬢様へ手渡します。
「アメジストのネックレスだわ!」
優美な金のチェーンに、しずく形のアメジスト。文句なしの一級品ですね。悔しいですが、悪魔には審美眼も備わっています。
「制服が紺色だから、合うと思ってね」
その制服の紺色、自分で選んだくせに、いけしゃあしゃあと、よく言いますわね。
「制服につけてもいいんですの?」
「ああ、学園の制服はシンプルだから、アクセサリーで皆、個性を出すんだよ」
悪魔は入学前からずっと、お嬢様の瞳の色のエメラルドのピアスを肌身離さずつけていますけど、学園の制服にはエメラルドのタイピンも毎日刺していましたね。そしてお嬢様には自分の瞳の色のネックレスですか。本当に独占欲強すぎです。
「アメジストは色んなヒーリング効果がある石だけど、これにはさらに私が防御魔法をかけてあるから、入浴と就寝以外はずっとつけているんだよ」
色々と言っていますけど、俺のものアピールですよね。でも悪魔の防御魔法は正直心強いです。お嬢様のような存在はどうしても、同年代の少女たちから、妬みや嫉みを向けられてしまいますからね。私は教室内まではご一緒できないので心配です。
「レオ様の瞳の色にそっくりで、うれしいです」
お嬢様が自ら捕まりに行くようです。
「アニー、私がつけてあげよう」
ほら、捕まってしまいました。
悪魔がお嬢様の首に手を回します。なかなかつかない、ふりをして、お嬢様が緊張しているのを楽しんでいる模様です。すまし顔を保っていますが、その顔の下で何を企んでいるのやら。
「ちゅっ」
わざとリップ音立てて、お嬢様の真っ白な首筋につけたばかりのネックレスのチェーンにキスしやがりました。
私の大事なお嬢様に何してくれているのですか。お嬢様、全身、真っ赤ですよ。目も潤んでいます。お嬢様、それだめなやつです。私の心臓が誤作動を起こしそうです。
「バッダ――――――ン」
「「「「「殿下」」」」」
大きな音と、護衛騎士の「殿下」の合唱。
階段の一番下にギルバード殿下の死体が転がっています。失礼、まだ死んではいませんね。虫の息ですが。ここで殿下が死んでしまったら、護衛騎士のラウルに迷惑ですからやめてくださいね。
「殿下、大丈夫ですか?」
護衛騎士の誰か、ラウル以外の誰か、早く殿下を起こしてさしあげて。
「何か、あったのでしょうか?」
お嬢様の麗しのお顔を悪魔が両手で固定して、お嬢様の視界に殿下が入らないようにしています。
「ギルバートが階段で足を踏み外しただけだよ、アニーが気にすることはない」
そういうことなのですね。悪魔の顔が真実を語っています。殿下が階段を下りてくるのが見えて、牽制のためにわざとキスされたのですね。殿下の位置からだと、ネックレスにではなく、お嬢様の首筋にキスを落としたように見えたのかもしれません。
そしてお嬢様の初心な反応を見てしまった殿下は……おかわいそうに。さすがの私も殿下には同情してしまいます。だってお嬢様は元々、殿下の婚約者になるはずだったのですよ。
私と悪魔が十歳、お嬢様とギルバート殿下が六歳のときのことでございます。
王宮の庭園で子供のためのパーティーが開かれ、十三歳から五歳までの有力貴族の子息令嬢が集められていました。私はしがない子爵家の次女ですが、悪魔の母君の王妹エリーゼ様にかわいがってもらっていましたので、兄様と一緒に参加しておりました。
こういう会は殿下方の側近候補、婚約者候補を探すために定期的に開かれていたのですが、それまでは当時十二歳でいらした第一王子のセドリック殿下のお相手探しがメインで、第二王子のギルバード殿下が参加されたのは初めてのことでした。
お嬢様の侍女になってから聞いたのですが、旦那様は自分の娘の最上級の愛らしさを常々自慢していらして、それを耳にされた国王陛下に「それほどかわいいのなら、うちの息子にくれないかい?」と言われていたそうです。旦那様はお嬢様が確実に王子殿下方に見初められると思いこんでいらして、お嬢様に「今日、アンの婚約者ができるのだよ」などとパーティー当日の朝、おっしゃっていたそうです。そしてこの旦那様の予言は、旦那様の思惑を外れた形で実現してしまったのです。
あの頃はまだお二人の殿下にも、当時十三歳の悪魔の兄君ルイーズ様にも、もちろん悪魔にも婚約者がいなかったので、エリーゼ様はご自分の息子たちと甥っ子たちのために張りきられておいででした。第三王子殿下を出産されたばかりの王妃陛下が不在だったことも、エリーゼ様の使命感に火をつけていたのかもしれません。
国王陛下、王子殿下方、エリーゼ様が並んで座られ、エリーゼ様の後ろにルイーズ様と悪魔が立っていました。そこへ挨拶のために、爵位の順に子息令嬢の手を引いた貴族たちが並んでいるのを、私と兄様はすぐそばで見つめていました。私たち兄妹の婚約者も探すと意気ごまれていらしたエリーゼ様の指示でした。エリーゼ様は愛のキューピットを自負していらっしゃいます。
王子殿下方、サターニー公爵家のお二人、四人はそれぞれに美形で、挨拶に来たご令嬢方は皆様、浮足立っておられました。かわいらしいご令嬢、聡明そうなご令嬢がいらっしゃいますと、エリーゼ様がたくさん質問をされますので、挨拶の列は遅々として進みませんでした。そしてご令嬢方の気合い、エリーゼ様のやる気にもかかわらず、四人の心を動かすご令嬢はなかなか現れませんでした。
公爵家、侯爵家、そして伯爵家の半分ほどまで挨拶の列が進んだときでした。ギルバート殿下が急に立ち上がられたのです。これから挨拶しようとしていた伯爵家のご令嬢はほんの一瞬だけ勘違いなされたかもしれません。殿下がお顔を真っ赤に染められていたのですから。しかし殿下の視線は挨拶を待つ列の先頭、淡いパープルのドレスを着た美少女、そう、アンお嬢様に縫いつけられていたのです。私も含めて、その場にいた全員が殿下の視線を追い、お嬢様を見つけ、その可憐さに釘づけになりました。
兄君のラインハート様の手をギュッと握られ、少し緊張の面持ちで、旦那様を見上げていたお嬢様。つややかなダークブロンドに浮かぶ天使の輪、透けそうに白い肌、ほんのりとバラ色に染まった頬、キラキラ輝くエメラルドグリーンの瞳、ちょこんとおすましする小さな鼻と唇、背中に羽がないのが不思議なくらいに妖精のような愛らしさのお嬢様は、私たちの視線にはまったく気づかれていませんでした。
誰もがギルバート殿下がお嬢様に心奪われたことに気づいていました。国王陛下は旦那様と口約束を交わしておいて正解だったと思われていたことでしょう。エリーゼ様はやっと甥っ子の心を捕らえる令嬢が現れたと喜ばれていたことでしょう。自分の娘に向けられた視線に気がつかれた旦那様は愛娘が王子妃になる姿を眼裏に思い浮かべていたかも知れません。
しかし悪魔は十歳にして、すでに悪魔だったのです。
立ちつくすギルバート殿下の横をすり抜け、悪魔はお嬢様の前に立ちました。
「こんにちは、レディ」
それは甘い甘い声、そして甘い甘い微笑みでした。本性を知り尽くしている私でさえ、うっかり見惚れてしまいそうなほどに。
「私の名前はレオポルド・サターニー。君の未来の夫だよ」
悪魔の暴走を誰もとめられませんでした。誰もがただ呆然と、悪魔とお嬢様を見ていました。
お嬢様は助けを求めるように旦那様を見上げましたが、旦那様は困惑の表情でお嬢様と悪魔を交互に見るばかりで、何もおっしゃいませんでした。何も言えなかったというのが正解かもしれません。となりのラインハート様は放心状態でいらっしゃいました。
「あなたがお父さまの言っていた、わたしのこんやくしゃさま?」
お嬢様が不安げに訊かれました。
「そうだよ」
悪魔は当時から嘘つきでした。
「君の名前は?」
お嬢様は婚約者だと名乗っているのに、悪魔が自分の名前を知らない矛盾になど、気づかれませんでした。
「アン・カーター、ともうします」
きっと陛下への挨拶の練習をされていたのでしょう。お嬢様は完璧なカーテシーを披露され、それから控えめに微笑まれました。その微笑みに悪魔は頬を赤らめましたが、今のように赤面を隠すこともなく、悪魔はじっとお嬢様を見つめて言いました。
「アン。かわいい名前だね。さあ、おいで」
悪魔はラインハート様からお嬢様を奪い取り、お嬢様の手を引いて、陛下の前まで歩いていきました。挨拶の途中だった伯爵親子を「失礼」の一言で、どかせたのはさすがとしか言いようがありませんでした。
「伯父上、母上、私の婚約者のアンです」
悪魔は言いきりました。悪魔が陛下を伯父と呼ぶときは、自分の意見を押し通したいときと決まっています。
「アン、陛下たちに挨拶して」
悪魔はそう言って、お嬢様の手をそっと離しました。
「セバーク・カーターがむすめ、アン・カーターともうします」
再びの初々しいカーテシー。それを満足げに見つめ、再度お嬢様の手を取った悪魔はエリーゼ様のほうを向きました。エリーゼ様はとても複雑な表情をしていらっしゃいました。うれしそうで、残念そうで、満足そうで、不本意そうで、そして腹立たしそうにも見えました。きっとご自分のお気持ちを計りかねていたのだと思います。
「母上、挨拶もすんだので、アンと二人きりで話をしてきます」
そう言って立ち去ろうとした悪魔を陛下がとめました。
「待ちなさい、レオポルド」
悪魔ははっきりと陛下を睨みつけました。
「何ですか、叔父上」
「アン嬢がレオポルドの婚約者だとは初耳なのだが」
この時点ですでに陛下は及び腰でした。
「それで?」
悪魔がぶわっと魔力を放出しました。急に巻き起こった風の正体を知らないお嬢様は平気なお顔でしたが、私たちは悪魔の仕業だとわかっていたので戦々恐々でした。
「私の記憶が正しければ、アン嬢はギルバートの婚約者候補なのだが」
目視できるほどの冷や汗を流しながらも、陛下は息子の初恋のために頑張られました。
「では記憶間違いでしょう。アンは私の婚約者なのですから」
陛下の髪の一部が風で舞い上がり、空中で静止しました。恐ろしいことに、当時すでに攻撃魔法が得意で、しかも魔力制御にも優れていた悪魔は、陛下の髪を一部だけを氷漬けにしたのです。わかりやすい威嚇でした。お嬢様以外全員、その悪魔の所業に凍りつきました。
あの場で、お嬢様だけが何にも気づかれずにいらしたのです。