人魚姫
美しい末の妹。
金色の髪に、小さな顔に綺麗に収まった形の良い鼻に、ベリーピンクの瞳、仄かに赤く色付く頬と瑞々しい唇。美しい声で紡がれる歌は皆に好まれ、皆は癒しを求めるかのように妹に言うのだ。
「美しい私達の姫君、歌って」
と、妹は請われるがままに歌った。
妹が16歳になった日、彼女は運命の出会いを果たす。
私達、海の世界に生きる住人にとって海の上の世界は、未知だ。
妹は16歳になったその日、海の上へ行き花火を見てきたそうだ。そこで人間界の王子に一目惚れし、たまたま嵐で船が転覆したところを助けてきたのだそうだ。
なんて、バカで愚かな妹なのだろう。
挙句に妹の恋心は実らずに、あの子は泡になって消えてしまった。
アンデルセンで語られた人魚姫の話は悲劇だ。
だが、それが事実である事を知っているのは、この時代に生まれた私達姉妹だけが知っている。
人魚姫の本を閉じ、本棚に戻す。
私の前世は、人魚姫のすぐ上の姉だった。あの子が可愛かった。愛おしかった。だから、あの子を幸せにしなかったあの男が憎かった。殺してやりたかった。あの男が選んだ女もまとめて。
結局、あの国は父王の逆鱗に触れ、消えて亡くなってしまった。
大きな津波は国を飲み込んだ。あっという間に、一夜にして消えてしまったのだ。
なぜ、姉様達と一緒に問い詰めたけれど、父王はついぞ口を開く事はなかった。
だから私は、生まれ変わって前世の記憶を思い出してからはずっと人魚姫について調べていた。残念ながらあの子が死んだ後については何も語られてはいなかった。
「魚谷は、いつも人魚姫に関する書籍を読んでるよね。なんで?」
教室に戻ると、派手な男が一人で居た。
金色に染まった頭髪に、カラコンでも入れているのだろう青い眼。整った顔立ちに、高い身長。女子にはモテて、その人柄故に、男子からも大人気な男だ。しかし、なぜ私が人魚姫を読んでいた事を知っていたのだろうか。
図書室で読むだけで、教室で読んでいた覚えはない。
「……人魚姫が好きだからよ」
「美しい悲恋に興味でもあるの?」
「そういう訳じゃない」
「魚谷って、もう水泳やんねぇの?」
「質問攻めね」
中学までは水泳をやっていた。
大きな大会で優勝出来るぐらいには才能があったのだろう。
だけど、中学最後の大会が終わると、その当時の監督の計らいで高校の大会を見る事が出来た。そこに前世姉だった人が居たのだ。
その人は前世の事を覚えていたのだろう。大会が終わるなり、私から会いに行って再会した。
今は水泳に人生を注ぎ、他の姉達と大会で優勝争いをしているのだと言っていた。
マジか。と思ったと同時に付いていけないと思って水泳は辞めた。辞めただけで、将来的にはインストラクターとかになりたいとは思う。
「やらないけど、将来的にプールに携われるような職業には就きたいとは思っているわよ」
「そうなんだ。水好き?」
「?どういう意味かはわからないけど、そうね、例えば水の塊っていうかしら、水族館とか、凄く好きだけど」
「へぇ。そっか」
機嫌良さそうなその男はジリジリと私に近付いてくる。
「俺ね、友達を探しているんだ」
「そ、そう」
「綺麗な女の子でさ、声は出ないんだ。舌切られちゃったみたいで喋ろうとするととっても痛そうにする。歩くのも下手くそでさ、でも優しかったんだ。嬉しい時も、哀しい時も、いつも一緒に笑ってた」
まるで、人魚姫。
人間の脚を手に入れるため、人魚姫は魔女と取引をした。
舌を切られて喋られなくされた挙句、脚は人間のそれになったが、歩く度に剣の上を歩くような激痛に襲われたのだそうだ。
本からの情報だが、もしそれが本当なのだとしたら、こいつの前世は王子だったのだろうか。
「その子は、今はどうしてるの」
「わからない。いつの間にか消えていたから。おかしいよね。隠れる場所なんてどこにもなかったはずなのに、寝て起きたらあの子はどこにも居なかったんだ。随分と探したよ。でもどこにも居なかった」
「まるで、」
鎌にかけようか。
「人魚姫に登場する王子様みたいに言うのね」
「はは。よく勘違いされるよ。人魚姫に登場する王子様と違って、現実には俺に彼女すら居ないからね」
こいつも、鎌をかけようとしている気がした。なんとなくだけど。
「あら、作ればいいじゃない」
「運命の相手はそんな簡単には作れないよ」
「は?」
何を言っているんだこの男は。
「またね、俺の人魚姫」
「え」
私は人魚姫じゃない。
あの美しく皆から愛された末の妹ではない。
それを伝えようとしたが、知らぬフリをした。
高校に入ってからの2年間、夏の時期になれば自然と足はプールに向う。
カルキ臭のするプールの傍は安心した。
前世、今で言う人魚の時にこの匂いを嗅いだらきっと臭かっただろう。あの当時の私の鼻は敏感で、嗅ぎ分けも出来たぐらいだ。
その自慢の鼻を使って、魔女まで辿り着いたぐらいだ。大したものだろう。
今じゃ無理だ。人間の感覚は非常に鈍感だ。
「魚谷。ここに居ると思った」
出た。
最近、私の周りに現れる神出鬼没の男。
「陽向」
「魚谷、」
立ち上がって、日向から距離を取る。
「ごめんね、気付けなくて」
「は?」
「俺の大事な人魚姫」
「え、」
走り出そうとして、運悪く足元が滑った。
プールサイドである事を一瞬忘れて走り出そうとした結果だ。
体制を崩したまま、プールに落ちた。
「カジカ…!」
水面から顔を出す。
びしょ濡れだ。
「勝手に名前で呼ばないで。それに私は人魚姫じゃないわ」
「俺の人魚姫だよ」
「違う!!」
プール脇にある梯子まで泳ぎ、梯子を使って上がると、突き落とされプールに逆戻りした。
「違わないよ。カジカは、俺の人魚姫だ」
「違う…。アナタの人魚姫は舌を切られて喋れなくなった子でしょ!?私は喋れるわ!」
「あぁ。その子は泡になって消えてしまったんだよ。親の虐待によってね」
思わず目を見張る。
「まぁ、本当に泡になったわけじゃないけどね。その子は不幸な子だった。親から走り回るからといって足をハンマーで殴られた。その次に、煩いからと舌を切られて死んでしまった。俺は哀しかったよ。そりゃ友達が死んでしまったから当然なんだけどね」
人魚姫は死んでしまっていた。
それが末の妹の生まれ変わりの子かはわからないけれど、悲しみが込み上げる。
「………そう」
「やっぱり、君は人魚姫だろ?」
「違うわ」
プールサイドに立つ陽向は、今度は梯子を上る私を突き飛ばす事はせずに手を差し出して来た。無視をして、びしょ濡れの状態でプールサイドに上がった。
「びしょ濡れだね。風邪を引くよ」
「余計なお世話よ」
スカートの端を絞って、水分を出す。
あんまり上手く絞れていなかったようで、スカートの端からぽたぽたと水が零れ出る。
「カジカ」
「名前で呼ばないで」
保健室に、きっと何かあった時の為のジャージが常備されているはずだ。
女子は特にスカートを汚しやすい生き物だから、だいたいの学校の保健室には置いてあると思う。
「カジカ」
「…………」
無視して歩く。私が歩いた後には、私の足と同じぐらいの小さな水だまりが出来ていた。
「……意地っ張り」
「…………」
「……頑固」
「…………」
「……頭固い」
「喧嘩売ってんなら頭突きかますわよ!!!」
髪の先から水飛沫が出る。
それを食らった陽向も少し濡れた。ざまぁ見やがれ!
でも、陽向は笑った。何が面白いのかは不明だ。知りたくもない。どうせ碌でもない事だろう。
「犬みたいだ」
「バカにされているみたいだから辞めて!」
「威嚇しているポメラニアンにそっくり!」
「…っ!!?」
陽向の胸倉を掴み、勢いよく頭突きを食らわす。
不愉快だ。何もかもが気に入らない。
保健室に行って、予定通りにジャージを借りる事が出来て、それに着替えた。乾いた清潔なタオルでわしゃわしゃと髪を拭く。
「ふぇっくしゅ!!」
ズビーと鼻をすする。
「あら。風邪でも引いたのかしらねぇ」
「……そうかも、しれません」
温かいココアを先生からいただき、フーッと熱を冷ましながら飲む。
「最近の陽向君のお気に入りって、魚谷さんかしら」
「え」
「陽向君って、不思議な子でしょう?家庭も普通とは違うし、割と友達が多いようで居なかったりするのよ」
どこか浮世離れした陽向は、そう言われて思い返せば友達らしい友達と話しているところを見た事がない。いつも不特定多数。浅く広くを絵に描いたような振る舞いに、余計に頭を抱える。
「陽向君も、人魚姫が好きみたいなの」
それは偶然か、はたまた陽向が意図的に起こしている事なのか判断は非常に付きにくい。
それ以上深くは聞く事はなく、やはりというかやっぱり私は次の日熱を出して学校を休んだ。
魚谷カジカは、最近のお気に入りの俺の人魚姫だ。
図書室でこっそり人魚姫の童話を読んでいるところを見た。最初はただの悲恋好きの少し変わった女の子だと思った。
次に彼女を見た時は人魚に関する書物を読んでいた。
悲恋が好きなわけではないと判断する。彼女の目的はわからず、ただ静かな図書室で彼女をこっそり見る日々。
うちの学校はプールの授業がある。女子と男子で別れて行われる授業は、夏の風物詩といっていい。図書室から見えるプールは、男子に人気のスポットだが、女子のプールの授業中は立ち入りを禁止にしている。覗き見厳禁という事だそうだ。
たまたま、そうそれこそたまたま、放課後にプールで泳いでいるカジカを見た。
綺麗なフォームで泳ぐカジカに目を奪われる。ぶれる事なく真っ直ぐに泳ぐカジカは最高に綺麗で格好良かった。ターンも完璧でスクロールに平泳ぎ、バタフライ、全部一通り泳いでいるのをただ眺めていた。
「人魚姫」
になりたかったのだろうか。
また、人魚姫になりたいのだろうか。俺はごめんだね。
せっかく人として生まれ変わった人魚姫、俺が捕まえて水槽の中で飼ってあげる。俺の水槽の中で目一杯泳いでくれたら、本望。誰にも見させない。俺だけの人魚姫。
「欲しいなぁ」
どうしたら、俺の手元に来る。
「そうだ」
あの時のように、鱗を全て剥がしてしまおう。
魔女の薬で人魚姫の鱗は剥がれ落ち、代わりに人の足を手に入れた人魚姫はその副作用から歩く事が出来なくなった。
あの時は最高だった。俺だけの人魚姫になったのだから。人に見られる事なく俺だけに囚われた人魚姫は可愛らしく、狂おしい程に愛おしかった。生涯を終えるときも一緒だったな。
「早くおいで。あの時みたいに俺だけの人魚姫になって、カジカ」
カジカの前世は人魚姫の姉。前世の記憶は部分的にしかないため、陽向の事は一切合切覚えていない。
陽向は前世、カジカを手に入れるため魔女から薬を買い、カジカの鱗を剥がすため無理矢理薬を飲ませ、人間の足になったカジカは薬の副作用から激痛でのたうち回っているのに、昼夜問わずヤりまくって、子ども孕ませた頃には周りをガチガチに固めてカジカを逃さない包囲網を作るマジキチな男。