水音と、兎と、笛の音と。
その街は、他国から『水の王国』と呼ばれていた。
陸の河川からは淡水が、外界からは海水が流れ込む潟──まさに海と陸との間にあって、その水面の広がりに無数の島が散在するそこに、その街はあった。
大陸の東の端に存在する、大陸一の貿易大国として、デュルキスの名を知らぬ者はいない。大陸西部を支配する国家群とは、その面積、人口において一〇分の一にも満たない小国家でありながら、東の海に浮かぶ数々の国々との貿易によって多大な富を築き上げたデュルキスは、その経済力によって独立国家としての揺るぎない地位を確保していた。
首都である街は、国家と同じ名。──デュルキス。
又の名を、世界唯一の生きた伝説。
1
青年は唐突に足を止めた。彼が歩いていたのは、街の中央に位置する貴族住居区域、別名『水壁区』の道の一つだ。
デュルキスには陸と水の二タイプの道がある。青年がこの時歩いていたのは当然陸であり、その陸の道の内でも建物に挟まれた狭い路地であった。曲がりくねった路地をいくつも抜け、少し開けた小広場をいくつも通り過ぎ、運河沿いのトンネル(ソットポルテゴ)を抜けた所で袋小路となり、立ち止まらざるを得なくなったというのがその理由である。
尤も、デュルキスの袋小路は建物に道を阻まれたものは少ない。今、青年の眼前に広がっているのは、ゆらゆらと夕暮れに染まる水面を湛えた水路だ。薄暗い運河沿いのトンネル(ソットポルテゴ)を抜けてきたばかりの青年の目には、紅い照り返しが眩しかった。水路は狭く、向かいには一世紀ほど前の建物が軒を連ねている。こちらは裏手に当たるのだろう、水路に面した出入り口も小さなものだった。
夕焼けが街を染めていく。夕映えに照らされた水路の水面を風が渡っていく。耳を打つ水音が余計に静けさを漂わせる。
青年は懐から横笛を取り出した。篠竹で造られた笛は、東の国より伝来した楽器だ。か細くも感じるその音色に心奪われ、友人の伝手により異国の師に教えを請うて早五年、なんとか音を出すに苦労はない腕前にはなっていた。
本来であれば、木造の屋内が一番音の聞こえが良いのだが、デュルキスの家屋は土地の狭さから非常に密接しており、近隣の知り合いに聴かれる可能性が大きい。騎士である己が笛などに打ち込んでいるなど軟弱なことよと云われるのも悔しく、心のままに奏でたい折には、こうして街の袋小路を探し歩くことになるのだった。
小さな横笛をそっと唇にあてがい、息を送り込む。途端に小さな楽器は、美しい旋律を奏で始めた。
青年が佇むその背後の運河沿いのトンネル(ソットポルテゴ)から、足音もなく、一つの影が忍び寄る。真っ白な毛並みを持つそれは、ほとんど潰れた楕円形と呼べる体格をしていた。頭部には大きく長い、一対の耳と一本の角。
「……!」
魔物の俗な気配に、青年は顔を上げた。笛をしまい込み、剣の柄に手をやり、油断なく背後に現れた角兎と対峙する。
それは、陸路を行く旅人に、「角兎」と呼ばれ、恐れられている魔物の一種だった。体長一メートルの兎とは、見ようによっては愛らしく、また魔物の中では温厚な性質である為、貴族の中には愛玩動物として飼う者もいる。
目の前のこれも、飼われていたモノが逃げ出したのだろうか。角兎は陸地に住まうモノだ。湿気の多い水の都では確かに暮らしにくかろう。しかしこのまま見逃せば、どこかで市民に怪我をさせることもあるやもしれない。
魔物はその見た目では窺い知れない程の戦闘力を秘めているのだ。剣が少々使える程度では、魔物の強弱では最下位ランクとされる角兎すら掴まえることは難しい。
気絶させて、とりあえず屋敷まで連れ帰ることにしよう。そう判断し腰を落とした青年の戦意を見て取ったのか、角兎の瞳に剣呑な光が宿る。瞳は赤───魔物の色だ。
自重を利用して飛びかかられてはいささか不利。先行を取るか。
鍔を鳴らして、青年は刃を抜こうとして───
「リクヤ?」
不意に鼓膜を揺らしたのは、自分の名。ついこの間から何度も何度も耳にするようになった、ソプラノボイス。
驚き振り向いた背後の水路に、リクヤは一層のゴンドラを見つけた。それは滑るようにこちらへと近付いてくる。船体の後部に立ち櫂を操る船漕ぎ手は船と一体化して、まるで優雅な水鳥のようだ。夕焼けを背に、束の間の休息を得る黒鳥。
「こんな処で、リクヤに逢えるなんて思わなかった」
その大きな黒鳥が、大切に懐に抱くのは、一人の姫君。
乗船部分を覆った黒い箱の扉部分が跳ね上げられ、中にいる人物の姿が浮かび上がってくる。
まず視界に飛び込んでくるのは、長い黒髪。扇形に広がったそれは光加減によって紫がかって見える。海風に広がる髪を押さえる細い指先はきめ細かな白磁。
そして、何よりも印象的なのは、その双眸。ほんのりと赤みがかった茶色は、夕暮れ時は更に幻想的に見える。一〇代半ばの健やかさを纏っていなければ、そのあまりに整いすぎた容貌は造り物めいて見えただろう。厚手のショールに身を包み体格を判りにくくしていても細身と知れるその少女は、まっすぐに青年に視線を固定していた。静かな驚愕が、彼女の面に広がっている。
しかし、驚いたのはリクヤとて同じことだ。それは油断に他ならなかったのだが、角兎から完全に視線を外し、確かにそこにいるのが自分の記憶と違わぬ相手かを確認する。別人で会って欲しいとの願いが、彼女の名を呼ぶこととなった。
「カスミ……?!」
少女は、それに応えるように微笑む。恥じらいを帯びたあどけなさと匂い立つような優雅さ。春の海を渡ってきた風に揺れる花が淡い芳香を広げるよう。
紛う事なく、彼が庇護すべき相手──カスミ・ザイツァール、そのひとだった。
どうしてこんなところにいる。
それがリクヤの第一の思考だった。しかし直後、広域に戻った視界が、カスミの至近距離に魔物がいるという事実を再認識させる。それならば、行動として選ぶのはたった一つだ。
リクヤは改めて角兎と対峙する。ゴンドラごと背中に庇い、魔物の進路上から少女を自分の躯で隠した。
「どうして、リクヤがいるの?」
一方カスミと云えば、事態が把握し切れていないようで、疑問の色も濃厚にこちらを見上げてくる。だか今はそれに答えている暇はなかった。剣呑な光を赤目に宿らせた角兎に、迷いつつも剣に手をかける。後ろには守らねばならない少女がいる。傷一つとてつけさせる訳にはいかない。鞘から剣を抜き放とうと柄に指をかけたその時。
いつの間にかゴンドラから着陸していたカスミの手が伸び、リクヤの動きを止めるように腕に触れた。
「駄目だよ! 兎さん、何もしてないのに!」
何かしてきてからでは遅いでしょうとは答えず、ただ困惑の眼差しをリクヤは返す。カスミはそれに軽く笑って、前へと出た。危ないと押し止めようとしたものの、彼女は凛として平気だからと進んでいく。
仕方ないと、彼女のすぐ後ろでリクヤは、それでも警戒だけは途切れさせず、角兎を睨み付けた。もし、カスミが傷つけられるようなことがあればその時はと、いつでも抜けるよう刀の柄を触れながら。
こんなにも護衛を心配させているというのに、護られる対象であるところの少女は気楽な様子で角兎へと近付いていく。
腕を伸ばしてもまだ触れられない辺りで足を止め、地面へと膝を突く。手提げ袋から小さなパウンドケーキの一片を包んだものを取り出すと、その包装を解いて角兎へと差し出した。
角兎は酷く警戒して何度か威嚇するように地面を前足で叩く。強力な武器である角をカスミに突きだしてみるものの、カスミはそれに動揺する風もなく、静かに待っている。
やがて。
カスミが攻撃するわけではないと判ったのか、角兎は警戒の色をその赤い目から消し去った。好奇心旺盛にカスミへと近づき、何度か匂いを嗅いでから大人しくその手に乗せられていたケーキを口にする。
途端に、角兎はぴょんと跳ねた。
体長一メートルもの動物が跳ねたのだから、その震動と来たら普通ではない。屈んでいたカスミがバランスを崩して後方へと倒れかかる。リクヤは慌てて両手でその背中を支えた。
「大丈夫ですか?」
「うん。ちょっとびっくりした」
驚いたのはリクヤも同じだ。人間のお菓子など、魔物には刺激が強かったのだろうか。
しかし角兎はそれが余程口にあったのか、バスケットを鼻先で突いている。リクヤとカスミは顔を見合わせた。
「もしかして、もっと欲しいの?」
人間の言葉を解した訳ではないだろうが、角兎がカスミを見る。何やらエサをねだるときの犬猫のように見えなくもない───大きさと、魔物の証であるその瞳の色を別にすれば。
カスミは嬉しそうにバスケットの蓋を開け、ケーキの残りを千切って角兎の前に並べた。それに口を付ける角兎は少女に酷く近く、手を伸ばせば簡単に触れられる距離だ。冬毛に覆われたその姿は実に丸っこく、たまに愛玩動物として貴族が飼いたがるというのもあながち嘘ではないように思える。
「おいしい? 良かった。君が全部食べて良いから、ゆっくりね?」
優しい声音で話しかけてるカスミに、角兎は目を細めて頷いている。言葉を解しているのではないのだろうから、単に咀嚼しているだけのことなのだろうが、これがつい先程、自分と睨み合っていた魔物かと思うと酷く脱力する。
一気に雰囲気が変化した兎を前に、戸惑いを隠しきれないリクヤの様子に、カスミは、堪えきれないように吹き出した。
「……どうなされましたか? 私が何か……?」
「ご、ごめんね」
カスミは懸命に笑いを堪えようとしているようだったが、その努力はあまり実っているとは言い難かった。それでもリクヤが不快にならずにすんだのは、その笑い方が可笑しくて仕方ないというよりは、微笑ましくて仕方ないという種類のものだったからだ。──気恥ずかしいことに変わりはなかったが。
「なんだかリクヤがそんなカオしてるの見るの、珍しくて」
はぁ、とリクヤは生返事を返す。どんな表情をしているのか、鏡がなければ自分では確認のしようがない。
ミュウと、子猫のような声がした。見ればどうも眼前の角兎の声らしい。図体にそぐわぬ声だと反応に困るリクヤにまた笑って、カスミは角兎に手を伸ばした。頭部を撫でるカスミの手に、角兎はまた目を細める。
「お腹が空いてたんだね。迷子になっちゃったの?」
もう一度、兎は鳴く。その仕草が首肯したように見え、リクヤは瞬いた。馬鹿馬鹿しい。相手は魔物だというのに。
「そっか……お家、わからなくなっちゃったんだね。お家のひと、探してるよね」
「それはどうでしょうか。魔物を飼育する場合、決して屋外へ出してはならぬという取り決めがあります。街の住民に危害が及ばぬようにするのが飼い主としての務め」
それはデュルキスが狭い都市であるからこその取り決めでもある。この街は馬ですら飼うことはできない。通りを馬が行くのすら危険なほど、路地は狭いのだ。
「ですので、魔物を飼う場合、必ず行政へと届出が行われます。そうして個体事に管理番号が振り分けられ、それを彫金した首輪が填められます」
しかし、眼前の角兎には首輪がない。これは、この個体が野生種である可能性もあるが、恐らくは。
「飼いきれなくなって、首輪を外し捨てたのでしょう」
行政には、死亡したとして首輪を返却すればいい。国も死体をいちいち確認したりはしないと聞いている。
それで飼い主は責任を放棄できる。──自分は、水路に全てを投げ捨てたような気持ちになっているのだろう。
「そんな……」
カスミは俯いた。撫でてくれる手が急に止まったことに、角兎が不思議そうに頬をカスミへとすり寄せる。カスミはその仕草に少しだけ顔を上げた。斜め後ろから盗み見たその横顔は、泣いている───ように見えた。まさかとリクヤが再度凝視しようとしたのに気付いたわけでもないだろうが、カスミは角兎を両手で抱き締める。いや、角兎の大きさからして、カスミが抱きつく様な格好ではあったが。
「姫君」
「───じゃあ、このコ、わたしが飼う」
「…………は?」
労るように伸ばしかけたリクヤの手が、ぎこちなく停止した。飼う? この魔物を?
「だって、帰るお家がないんでしょう? だったら、わたしが連れて帰る」
リクヤを振り向いたカスミは、泣いてはいなかった。譲らない、切実な眼差しがこちらを見据える。
こんなもの、少女の感傷だ。そう切り捨てることは容易かった。けれど、リクヤはただ頷く以外の選択肢をもたなかった。
判りましたと微笑むと、カスミは花開いたように明るく笑った。その笑顔だけでまあいいかと本心から思ってしまっている自分にリクヤは苦笑する。自分が、この少女に対してはどうも甘いらしいということは薄々自覚していた。だからもう、今更だ。
「どうやら、戦闘は免れたようですね」
魔物を切り捨てることに躊躇いはないが、余計な殺生をせずに済むのならそれに越したことはない。何よりも少女が無事であったのだ。何よりもそれを良しとすべきだろう。
彼女が見かけよりも剛胆であったことに対する驚きは未だ消えないが。
まあ、お互いに判らない部分があるのは仕方がない。何せ彼女の保護者役をリクヤが引き受けたのは、たった一ヶ月前のことなのだから。
そんな成り立ての被保護者は、成り立ての護衛者に怒った振りで視線を投げてくる。
「リクヤがすぐ剣に手を触れるから怒ったのかもだよ?」
魔物に警戒するのは当然のことです。間髪入れず反論は浮かんだが、口にするのは憚られた。貴族の一員である少女が、標準よりも慈愛の精神が強いは当然なのだろうし、それは注意すべき欠点ではない。
無表情なままのリクヤに、カスミは、でも、と頬を緩めた。
「ありがとう。……守ろうとしてくれて」
照れたような、どこか寂しそうな微笑みがそこにはあって。リクヤは何故か焦り、頭を垂れた。
「いえ、当然のことを行ったまでです」
そう、騎士として当然のことだ。何を置いても弱者を優先すること。礼を言われることではないが、それでもやはり快い。
しかし、何故、こんな路地の突き当たりで、魔物から少女を護るなんて羽目になったかと云えば。
「それより、何故このようなところにお出でになられたのですか? 本日は家で休養すると約束頂いたように記憶しておりますが」
表情も硬く追求するリクヤに、カスミは途端に子供のように焦った表情を見せた。
「図書館に本を借りに行く処だったの。とても大きなものがあると聞いたから」
それは王立図書館のことだろう。確かに市民であるならば誰でも閲覧が可能で、貴族であるならば貸し出しは自由だ。リクヤは深い溜め息をついた。
「……姫君、それならば私が同行いたします。お一人で行かれても、あなたにはまだ市民証がない。貸し出しどころか閲覧すら不可能です」
「あ、そっか……」
そこまでは説明されていなかったのだろう。カスミは肩を落とした。……が。不意に何かに気付いてリクヤを見上げる。
「姫君?」
シンプルに疑問を示した時、カスミの中で急激に不満が膨れあがったようだった。
「名前で呼んでってお願いしたのに」
拗ねた仕草でそっぽを向いてしまう。
「……そういう訳には参りません」
「どうして?」
「貴女と私とでは、身分が違います」
「そんな、同じ貴族階級なのに?」
必死に言い募る少女に、リクヤはただ首を振る。
「同じではありません。ザイツァールの一族と我がクィンティ家とでは、家の格が違います」
それは嘘ではない。ザイツァール家は、代々の元老院議員階級だ。政治の中枢に携わり続ける名門中の名門である。
デュルキスには、貴族は約一〇〇〇存在する。その内、外交・司法を担当居る委員を輩出する元老院の議員は僅かに一二〇。その一二〇の議員を輩出している貴族の家は僅かに八〇。ザイツァールは一〇〇〇分の八〇を勝ち取り続けてきた家柄だ。同じ貴族とは云え、国会に席を置くことで精一杯のクィンティ家とでは、政治的発言力が天と地ほども違う。
同じ貴族という括りの中にいても、貴族は上流と中流、そして下流の三層に分割されている。その枠組みを超えた付き合いというのは実に希で、大抵は同じ枠組みの中で友人関係を築き、姻戚関係を結ぶ。
よって、リクヤは生まれてこの方、唯一の例外を除けば、身分が違う相手とこのように会話を交わしたことがない。友人関係は主に同じ海軍省に属する同僚ばかり。中には夜会に喜んで出席し、仮面で顔を隠した恋愛遊戯に勤しむ者もいたが、リクヤとは縁遠い世界だった。
少なくとも、二四年間の彼の人生において、呼び捨てを願い出ててくる貴族令嬢は存在しなかった。……彼女に会うまでは。
自分とは七つも違う年下の相手は、十代半ばの年相応に拗ねた素振りで唇を尖らせている。微かに眉根を寄せている様子すら愛らしく見えるのは、心易さからくる欲目だろうか。
「いいもの、姫君って呼ぶのなら、もう返事しないもの」
リクヤには妹はいないが、もしいるとしたらこんな風に手が掛かって我が侭を云って──それでも憎めないものなんだろうと思う。
と。寂しそうに頬を膨らませたカスミが、不意に軽く咳き込んだ。
「とりあえずこれを着て下さい」
リクヤは着ていたジャケットを脱ぎ、カスミの肩に羽織らせる。体格差から、それはマントのようになってしまったが、少しはマシだろう。
「ごめ……っ、なんともない、から」
既に辺りは夕闇が支配しつつあった。急激下がり始めた気温に今更気付き、リクヤはカスミの顔を覗き込む。呼吸をなんとか整えたものの、夜気の為か熱の為か、カスミの瞳は潤んでいた。
「……駄目だよ、リクヤが風邪、ひく」
呟く度にカスミは咳き込む。彼女は決して病弱ではないが、ここ数日、夜間の外出を強いられた為にすっかり体力を消耗しているようだった。
リクヤが暮らす街は大陸の東方に位置し、年中を通して温暖な気候に恵まれている。近くを温暖な海流が流れており、そのお陰で春から秋にかけては過ごしやすい。しかし風の向きが変わる年の瀬が近付いてくる時期には、厳しい冷え込みが訪れる。少女はここより遙かに北、氷の街と呼ばれる地方に生まれてこの方住んでいたのだが、さりとて寒さに強い耐性がある訳でもないようだった。
熱に因るものだと理解していても、少女の黒目がちの瞳が潤んでいれば、心はざわめく。しかしそれは黙殺した。保護者役の自分が感じて良い種類のものではない。
「お気になされませんよう。それよりも、姫君の風邪の具合のほうが、私はよほど気になります」
今日は一日屋敷で大人しくしているよう、主治医の指示があったはずだ。だからこそ、自分は今日はお役御免だったのだ。
しかし、少女は家の主人格だ。命じられれば船漕ぎ手に否応はあるまい。
「ホントに、平気だから」
青ざめた顔を隠すように、カスミはリクヤに背中を向ける。それより、と、殊更に明るい問いかけが聞こえた。
「……こんなところで何をしてたの?」
突然の質問に、リクヤは少しだけ考えた。それが自分への問い掛けなのだろうと推測し、簡素な返答を口にする。
「大した用ではありません」
懐にしまい込んだ笛に、衣服の上から手をあてがう。そう、大した用事ではない。ひどく個人的なことだ。
カスミはゆっくりと振り返った。夕焼けが、彼女の髪を澄んだ紫にみせる。紫水晶もかくやという輝きに、リクヤは目を細めた。
「……笛の音が聞こえた気がしたのだけど……」
カスミは自分の唇に指先をあてた。白い肌に紅色が鮮やかで、視線が吸い込まれる。
「リクヤが吹いていたのかなって、そう思ったんだけど……違う?」
束の間逡巡し、結局リクヤは首肯した。別段、隠すほどのことでもない。
「唯一の趣味といったところです」
「ああ……やっぱり、リクヤの音だったんだね。そんな感じがしたの。あなたととても印象が重なる音だったから」
彼女には、自分の笛の音はどう聞こえたのだろうか。問うてみたい気もしたが、それは実行できなかった。それではまるで、自分という人間をどう思うかと尋ねるのも同じ気がした。そこまで踏み込むことは躊躇われる。
「笛を奏でるのは、とても素敵な時間だと思う。だって、聴いてるひとも優しい気持ちになれるもの」
リクヤの気持ちを知ってか知らずか、カスミはふわりと微笑んだ。笑顔を見る度、花のような少女だと改めて思う。咲き誇る薔薇のような豪奢はなくとも、勿忘草のような小さく控え目に咲く可憐な花のようだと。
「ありがとうございます。私の腕など、まだまだ拙いものなのですが……昔から、この笛を奏でているときが一番気持ちが安らぎます」
知らず、柔らかい微笑を浮かべて応えていた。
「どれくらい吹けるの? ね、折角だもの、聴かせて? わたし、リクヤの笛の音、もう一度聴きたい」
カスミのおねだりは可愛らしく、実に無邪気なものだった。
しかしリクヤはその願いを断った。カスミの瞳が落胆で翳る。
「姫君のお体が最優先します。お屋敷に戻られますよう」
ゴンドラへ乗るよう促すが、カスミは渋るように首を振る。姫君と短く鋭い声を向けると、少女の小さな肩が震えた。
「……屋敷に戻ったら、こんな風にお話しできないもの……」
縋るような少女の言葉が、哀切に響かなかったと云ったら嘘になる。
空気を切る鋭い音が、リクヤの鼓膜を震わせたのは、その瞬間だった。
何かが来る──その直感だけで、リクヤはカスミを腕の中に抱え込み、背後へと飛んだ。
鮮血が飛ぶ。続いて、石畳を穿つ音。
「伏せろ!」
咄嗟の出来事に反応できない船漕ぎ手に、リクヤは怒声を飛ばす。事態の把握が出来ないまま、壮年の漕ぎ手は命じられたことに従おうとする。
しかし、それでも遅かった。
船漕ぎ手の眉間から、赤葡萄酒のような鮮烈な色が吹き出し、自ら船の中に倒れ込むようにして横たわった。彼を襲った攻撃は船にも及び、優美な船体に無数の穴が開けられ、ゆっくりと浸水し始める。
最初の攻撃から飛び道具と判断したリクヤは、後退を続け、上空から狙われる心配のない運河沿いのトンネル(ソットポルテゴ)へと、少女ごと移動していた。足下には角兎もいる。野生の生き物の防衛本能には目を見張るものがある。
「リクヤ、怪我を……!」
腕の中で、カスミが小さな悲鳴を上げた。見るまでもなく、左腕上部を負傷していることは痛みから躯が教えてくれている。彼女を抱き締める為に伸ばした腕、それだけの動作が、攻撃を避けるに余分だった。
「貴女にお怪我はありませんか」
「わたしは、平気」
それを確認できれば充分だ。
襲撃は止んでいた。相手から視認できない位置にリクヤたちが移動した為か、今のが不意を狙うものだったからかは判然とはしない。
リクヤは壁際へとカスミを押しやり、しゃがんでいるよう指示した。白い魔物が彼女を庇うようにその傍らへと付き従う。
少女は不安げに、角兎を撫でた。柔らかな生き物に触れていられることで精神的に安定するのか、彼女に恐慌をきたす気配はない。
「あの攻撃をかわすとはな」
ややくぐもった声に、リクヤは水際を振り向いた。先程の攻撃ですっかり舗装を駄目にされた石畳の上に、一人の男が立っている。
見慣れぬ装束の男だった。大きめの布をいくつか躯に巻き付けることによって衣服となしている、そんな印象だ。布は顔にも巻き付けられており、リクヤが見えるパーツはその双眸だけだった。年の頃を窺い知ることは出来ないが、鍛え上げられた体躯が手練れの者であることを予感させた。
ここが街中であることに、リクヤは唇を歪めた。戦闘能力として自分が保持するほとんどのものが、ここでは使えない。
「何者だ」
それでも、敗北は選択肢にはない。毅然と相手を睨み付ける。
「市内での戦闘行為は死罪に値する──承知の上の行動か」
「これは戦闘ではない」
相手は臆することなく、言い放つ。
「崇高な命による、救済だ」
「何を──」
その言葉の意味を問い質す余裕は、もはや与えられなかった。男の手から、何かが放たれる。弾かれた音が発生するのと、それがリクヤに着弾するのとは、ほぼ同時だった。
2
「リクヤ!」
叫び、駆け出そうとしたカスミへと、リクヤに向けられたものと同じ攻撃が放たれる。カスミにそれを視認することはできなかった。ただ、純粋な恐怖が背中を駆け上がる。
澄んだ音が、何かを砕いた。
「な──」
男の動揺が声として空気を振るわせる。
「リクヤ……」
安堵か、驚愕か。どちらとも付かない声音で、カスミは自分の眼前に立つ青年の名を呼んだ。
「お怪我はありませんか」
先程と動揺の問いが、繰り返される。それが彼らしくて、場違いであるのは承知の上でカスミは微笑んだ。
「わたしは平気。あなたが護ってくれたから」
無言のまま、青年が姿勢を正す。その両腕は淡い光を纏っていた。傷は──ない。
「何故だ……あの攻撃をどうやって躱した!」
「躱してはいない。打ち落としただけだ」
男は絶句した。カスミはリクヤの足下を見る。砂のように砕かれた小石があった。石──そんな原始的な飛び道具で、襲撃者は石畳を抉ったというのだろうか。
「驚くと云うことは、軍に属するものではないということか。……答えろ。誰に頼まれた」
低く、リクヤは問いかける。相手を威圧するだけの重みをもった声だ。いつも柔和に話す彼とは縁遠く、けれどひどくしっくりと似合っているようでもある。
そもそも、トンネルの天井に手が届くほどの巨漢と対峙していても、リクヤがひどく貧弱にみえることはない。身長差で云えば二〇センチ、胴回りで云えば一抱え分は違っているだろうに、均整の取れた長身が、彼を侮ることを許していない。
「貴様……何者だ」
襲撃者の問い掛けに、リクヤは訝しげに眉を顰めた。睨み合う沈黙が、しばし続く。自分の呼吸する音がやけに耳障りで、カスミは息を潜めた。
「デュルキスの竜騎士を知らずに襲うとは、命知らずもいるものだ」
「竜騎士?! まさか」
「【迅駛】」
歌うような言葉で、青い風が動いた。カスミにはそう見えた。
気付けば、襲撃者は地面に蹲っていた。傍らには、一瞬で数メートルを移動したリクヤが無表情に直立している。
「そのひと……」
「気絶させただけです。襲撃の目的を確認しなければなりません」
「うん……」
知らず、カスミは自身を抱き締めた。襲撃の理由。彼が狙ったのは、恐らく自分だ。何故狙われるのかは理解できないが、それより辛いのは、周囲にいる誰かが傷つくことだ。目の前の彼や、鬱いでいた自分を今日連れ出してくれた、ゴンドリーエや……。
「リクヤ、彼は……エイメイは?」
「エイメイ……ゴンドリーエですか。……残念ながら」
水面には、何もなかった。彼女をここまで連れてきたくれた船も、それを自在に操っていた男性も。
自分が、船から降りたからだろうか。まさか、街中で襲われるなんて予想しなかった。その甘さが、彼を殺したんだろうか。
目の前が暗くなる。崩れ落ちそうになったカスミの躯を、抱き留める腕があった。
「……命を奪う者がその罪を背負うべきです。貴女ではない」
その声はいつもの柔らかなそれで、余計に安心してしまう。うん、としか答えられなかったのは、そうでなければ泣き出しそうだったからだ。
泣けない。少なくとも、今は。
──迷惑をかけたくない。
「リクヤ、傷を見せて。出血したままでしょう?」
「いえ、もう止まりました。じきに塞がることと思います」
「え、もう……?」
彼が負傷してから、ものの五分も経っていない。しかし、苦笑しつつ彼が見せてくれた左腕は、破れた衣服に血の後はあっても、怪我はもうかさぶたが出来かけていた。
常人離れした治癒能力。カスミの脳裏を、『竜騎士』の響きと共に蘇るものがある。それは兄から聞かされた、デュルキスを守護する騎士の話だ。
「リクヤ、あなた……デュルキス最強の騎士の一人だったんだね」
「その呼ばれ方には、いささか面映ゆいものがございますが。確かに、竜騎士はデュルキスにおいて優れた騎士を示す言葉であるようです」
僅かに照れたように、リクヤは苦笑する。沈みゆく夕陽の最後の残照が、青年の横顔を柔らかく色付かせる。
綺麗な人だと、初めて逢ったときにも思った。こんなひとが、束の間とはいえ、自分の保護役として傍にいてくれるのかと。
最初は、兄の友人だからかと思っていた。既に公務に着いている人に敢えて依頼したのは、兄が一番信頼を寄せている相手だからだろうかと。
勿論、それは理由の一つではあるだろう。けれど兄は、感情的理由だけで物事を決める青年ではない。
カスミを保護する──文字通り、護るために、兄はリクヤを選んだのだ。
デュルキスを護る最強の騎士に依頼することによって。
デュルキスは交易で栄えている国だ。その国土面積のほとんどは海の中。潟の上にある。人口は僅かに一六万。二〇〇万以上の民を有する西域の大国と比べ、戦闘力として活用できる人員には限界がある。また、国土面積に限りがあるということは、自給自足が不可能であるということでもある。事実、デュルキスは食糧のほとんどを輸入に頼っていた。
戦闘員と食糧。この二つは戦争を行うに当たって欠かせない要素である。これを圧倒的に不足しているデュルキスは、貿易上の要という地理的条件、そしてその経済的成功から、いつ他国に侵略されてもおかしくない条件下にあった。
しかし、過去、幾度かの戦争や局地的紛争を歴史として刻むものの、デュルキスは一度として敗北の味を知らず、一度として侵略の危機に晒されたことがない。
その理由の一つが、竜騎士である。
デュルキスにおいてその名を有するのは、常に一〇名。しかし、そのたった一〇名の騎士が一〇万の軍を軽く凌駕することは、戦いの度に証明されていた。
そもそも、デュルキス人の身体的能力そして魔術的素養は、どちらも他国人の追随を許さない。純血のデュルケードは、鍛えれば五階建ての建造物を飛び越える跳躍を可能とし、鋼の剣を跳ね返すほどに肌を硬質化させることも可能という。また、呪文に頼ることなく魔術的現象を引き起こす才能を生得的に獲得している。
この特異な血の伝承が、彼らを未開の地へと果敢に赴かせ、世界中と交易を開かせた原動力であったのかもしれない。
しかし、純血にしか発現しない力は、同時に彼らを閉鎖的にもさせた。建国以来、人口は一五万前後で変化せず、新しい土地に領土を広げることもない。彼らの能力は常に自己防衛の為にあり、その特化が竜騎士であった。
その剣は一振りで戦場を薙ぎ払い、その身は風よりも疾く地を行くと云う。
まさしく、『生きる伝説』として。
「竜騎士になるには、少なくともデュルキス守護士として、一〇年の経験が必要だと聞いていたのだけど……」
先日の自己紹介の折、リクヤは確か二四歳と云っていた。落ち着き払った外見から、実年齢よりやや年上に見えなくもないが、歴戦の戦士と云うには若すぎる。
「竜騎士は階級ではありません。功績によって与えられる称号とは違いますから」
それでは、純粋な能力によって選ばれるということだろうか。好奇心から質問を続けようとしたカスミは、視界の端に有り得ないものを見てその動きを止めた。瞬時にリクヤが彼女を背に庇う。
倒れ伏し、指一つ動かすことも叶わなかったはずの男が、ゆっくりとその身を起こそうとしていた。
「急所を突いたと思ったが……」
再度構えに入ったリクヤに、男は吠える。威嚇ではなく、咆哮。それは既に、人の出す声ではなかった。
唸りながら、男はカスミたちへと突っ込んでくる。その躯が、不自然に膨れ上がった。纏っていた衣服が破れていく。筋肉の巨大化、否、変形を目の当たりにして、カスミは喉の奥で悲鳴を上げた。
男──一瞬前まで男であったモノは、巨大化した腕を繰り出した。その軌跡にあったトンネルの柱が撃ち抜かれる。
「な──」
その威力に、リクヤも言葉を失ったようだった。男の攻撃を受け止めようとしていた構えを咄嗟に崩し、カスミを片手で抱き上げる。二人が存在していた空間を、巨大な質量という威力が襲いかかった。壁が打ち砕かれ、衝撃で他の柱に罅が走る。
支えの柱を失った運河沿いのトンネル(ソットポルテゴ)は、あっけなく天井を落とした。轟音を上げて、トンネルが崩れ落ちる。
濛々(もうもう)と砂塵を上げ、瓦礫の山が築かれていく様を、半ば放心状態でカスミは眺めていた。これでは、あの下に残った者は到底助からない。
「あ……あのコ!」
あの、無害な魔物は。怯え、自分に縋るように傍にいたというのに、抱きかかえることも出来なかった。全てが、あまりに一瞬で。
「ここにおります」
みゅう、と呑気な声と、何故か疲労したようなリクヤの声が重なった。見れば、反対側の腕に、リクヤは角兎を抱えてくれている。兎がもがいたので、青年は魔物を解放した。跳ねるように角兎は少女の足下に擦り寄ってくる。続いてリクヤはカスミを離し、その躯の何処にも怪我がないことを確かめるように視線を注いだ。
意味はないと知っていても、真摯に見つめられることには、どうしても一種の羞恥を覚えてしまう。
「あの……ありがとう」
「いえ」
リクヤの応えは短く、彼の意識はまだ戦闘状態にあるのだと知れた。カスミは邪魔にならぬよう、数歩を後退する。
瓦礫の山が、崩れた。
中から飛び出してきた巨大な二本の腕を、リクヤは右腕一本で跳ね上げる。腰から下は未だ埋もれたまま、身動きの取れない相手の懐に一歩で飛び込み、その鳩尾に拳を繰り出した。ぐらり、と、男の上体が揺れて、前方へと腰で折れ曲がる。
あっさりと肥大化した筋肉を突いたリクヤの右拳は、先程のように淡い光を帯びていた。
「気絶させたの?」
「はい。激突の瞬間に超高速の振動波を拳で生み出しました。人体というものは、存外、振動に弱い。内部から揺らすと脆いものなのですよ」
それが、竜騎士としての彼の能力なのだろうか。デュルケードであっても、そのような能力は先天的には獲得していない。恐らくは、魔法と組み合わせて奮う力なのだろう。そう思って見ると、リクヤの右手首には、細身の腕輪がつけられている。質素を好む彼らしく、それは何の細工もない無骨なものだが、それでも彼が進んで装飾品を身につけているというのは、よく考えてみれば似合わない気がする。
腕輪には、親指の爪ほどの大きさの石がはめ込まれていた。薄い水色で、光に透かすと中に白い小さな羽根が見える。しかしそれは、本物の羽毛ではない。様々な奇蹟を起こす『光石』の力の結晶がそのような形をしていると云われている。
デュルキスを発祥の地とする魔術の一つ──文字的魔法は、通常は照明原料として用いられる光石に、専門の技工士が精製を施した『光宝石』を必ず必要とする。表意言語であるデュルキスの古い文字を、現象として現実世界に発現させる為の媒介だ。
しかし、魔法は巨大な効果を発現させることは難しい。振動を生み出したとしても、それは大地を揺るがすほどのものには成り得ない。『世界』とは、それほどに影響されがたいものなのだ。文字一つで起こせる変化など、たかが知れている。
「デュルケードは魔法の民でありながら、魔法士を生み出さない。……他国で魔法に詳しい方は、口を揃えてそう云うそうだね」
「強力な魔術は、時間が掛かりすぎます。実戦的ではない」
身近な力であるが故に、奇跡として崇めない。そこに、魔法を能力の一つとしてしか捉えないデュルケードの特徴がある。それは、海という、世界で最も魔物が棲息する地域に国家を構える国の住人だからこそかもしれないと、カスミは水面へと視線を投げた。
それは、カスミにとっては幸運だったのだ。
風船の割れた音がして、リクヤに突然抱き締められる。また襲撃かと肩を強張らせたが、リクヤは動かない。どうしたのかと顔を動かそうとして、また、強く抱き込まれた。息が苦しい。
「リクヤ……?」
「目を閉じて下さい。決して、何も見られぬよう」
「どうしたの? どういう……」
その時、慣れない匂いが鼻をついた。錆びた金物に鼻を近付けた時のものと似ている。……血の臭い。
「……さっきの、ひと、は?」
訊くのは怖かった。けれど問わずにはいられなかった。リクヤは躊躇ったようだったが、強く請うと隠し立てはしなかった。
耳元で、事実報告が囁かれる。
不可解な力でもって、男の頭部は破裂したと。
「……申し訳ございません。意識は完全に断っていましたので、油断いたしました」
「どう、して」
指先が冷たくなる。崩れ落ちそうになる膝を、青年にしがみつくことでなんとか立たせる。どうして。──自分に関わることで、人が死ぬ。
「わたしには、何の価値もないのに……!」
泣きたくなかった。単なる甘えだと自覚していたから。
けれど、絶えきれない。これからもこんなことが続くのだろうか。一体、いつまで。
溢れ出した涙が、視界を滲ませる。
蜃気楼のように霞んでいく世界の中で、それでも、リクヤの腕が解かれることはなく、カスミは彼の胸の中で、声もなく泣き続けた。
3
カスミは、リクヤの親友であるアキトの実妹だ。リクヤとアキトは一〇年来の友人であるが、少女を紹介されたのは、たった一月前のことになる。
満月の夜だった。
いつものように海軍省での務めから帰宅したリクヤに、アキトからの呼出の手紙が届いていた。またどこかの夜会にでもつき合わされるのかと嘆息しつつも、衣装を紺地の質素なものへと取り替え、足早に友人宅へと向かった。 アキトの家は、リクヤの家から歩いて一〇分という実に気軽に行き来できる場所にある。デュルキスの青年貴族の例に漏れず、二人とも一人暮らしの身の上だ。身の回りの世話と建物の手入れについては、住み込みの老夫婦に任せている。
お互いに気易く行き来している為、アキトの家の召使いもリクヤの顔を見ただけで中へと通してくれる。少年期と青年期の付き合いで変わったことと云えば、互いが生家を出た為、訪問に遠慮が必要なくなったことだろう。
アキトの家とリクヤの家とでは格が違う。それは少年期から既に明確なことであり、どれだけ子供同士対等な関係であろうとも、家同士の力関係を変えることは不可能だ。
それは今でも変わりはないが、家人に気を遣う必要がなくなったことは有り難い。
「思ったより早かったな」
一階の中庭に足を踏み入れた途端、頭上から快活な声が降ってきた。大勢を相手にすることに慣れた、滑舌良く腹から響く声だ。
見上げると、二階分の回廊から身を乗り出している青年がいた。階段を使用せず、手すりを飛び越えてくる。よろめきもせず着地してみせる身体能力の高さは、デュルキスの騎士としての訓練を受けた証──『貴族』の証の一つだ。
リクヤより頭一つ分だけ低い彼が、この家の主であるアキト・ザイツァール。前髪だけ長い漆黒の髪の下で、紫色の瞳が鋭利な輝きを放っている。
性格の強さがそのまま眼差しの強さに表れている──アキトはそんな青年だ。歳は二二。リクヤと同じく国会に議席を持つ年若い貴族だ。そしてリクヤとは別の意味で、若年層の貴族間での有名人でもある。若者が集うクラブでの華々しい活躍と現在の夜会での顔の広さは、堅物な所のあるリクヤを呆れさせるほどの数と内容だったりする。
ただ、アキトにはそうした醜聞を醜聞とさせないだけの花がある。黒系の長衣に身を包むことの多いリクヤとは対照的に、アキトは白絹で裏打ちされたマントを斜めに羽織るなど、豪奢な服装をすることが多かった。それがまたよく似合い、彼の存在感をアピールすることとなる。
ただし今日の彼は一切の装飾もなく、シンプルなシャツにズボンだけという格好だった。
「今日は書類整理だけだったからな。……それより珍しいな。今日は外出はしないのか」
てっきり夜会の付き添いだとばかり考えていたリクヤは、驚きを隠しもせずにアキトの様子を眺めた。年下の友人はその視線に軽く肩を竦めてみせる。
「一日、家の中の整理で大騒動だったんだ。まさかロゴス・マジクの筋力強化がこんなことで役に立つとは思わなかった」
魔法の中でも高度と云われる言語的魔法を、室内清掃に活用している者など確かに多くはあるまい。それだけの魔法知識を習得している人間は、ほとんどが裕福な暮らしをしているのだから。
「自分で荷物を運んだのか」
「荷物どころじゃない。家具も全部だ」
「呆れた奴だな。人手くらい、いくらでも雇えただろう」
「金をけちった訳じゃない。今、この家に男を入れたくない理由があってな」
「……俺は別枠として考えて良いのか?」
「当たり前だ。どこの世界にお前のような体格の女がいる」
アキトは二階の居間へとリクヤを案内した。
デュルキスでは、一階は湿気の為住居スペースとして利用されることは少ない。アキトの家でも一階は中庭と倉庫として使用されており、主人である彼が暮らすスペースは二階部分に設えてあった。この造りはリクヤの家でも同様だ。
模様替えをしたという割に、居間は前回来たときと何も変わっていないように見えた。馴染んだ長椅子に腰掛けながら、間違い探しをするように油断なく観察する。
「部屋の入れ替えをしていたのはこの上──三階部分だ」
召使いの老婆が運んできたグラスを受け取り、アキトは藤製のカウチに身を横たえた。薦められて受け取ったグラスに口を付ける。上質の葡萄酒だ。甘みが濃く、香りが非常に強い。
「良い品だな。西域のものか」
「いや、南の植民地で育成している葡萄で造らせたものだ。年数は若いが、なかなかの味わいだろう」
「ラマリーの農園のものか。しかし、デュルキス製の葡萄酒もここまでの品質のものが造れるようになるとはな……」
リクヤの感嘆に、アキトは満足げにグラスを掲げる。
「西域と同種の葡萄をそのまま育成するだけでは、いつまで経っても西域には勝てない。デュルキスにはデュルキスに合った葡萄を作り、それに合う製法を考え出す必要がある。……その政府方針がついにラマリーで花開いた。それだけのことだな」
その努力が、口でいう程に容易くないことはリクヤとて解る。無言のまま二人はグラスを合わせ、祖国の発展に乾杯した。
葡萄酒は大陸全土で人気の高い嗜好品だ。より美味な品を流通に乗せる事が出来れば、それはまたデュルキスに富を運んでくれる。
「ラマリーの農園開発に、最も尽力していたのはザイツァールだったな。……輸出権は独占できそうなのか」
「やろうと思えば可能だろうが、敵も作る。そこまでしてしがみつかなければならないことはない。競争相手は多い方が、一族の者も商売に励むだろうしな」
その余裕は、彼が揺るがされることのない財政と権力の基盤の上に立っているからこそだろうと、リクヤは思う。先行投資を行えるだけの財力のゆとりがザイツァールにはあり、そのゆとりが更なる富を育てる。勿論それには先見の明が必要だが、目の前の青年は商才に置いても同年代の誰にもひけは取らなかった。リクヤが素直に彼には敵わないと思う部分だ。
「では、今夜はこの新しい葡萄酒のお披露目に呼んでくれたのか」
「まさか。それならば、いきなりお前の家を埋め尽くすだけの葡萄酒を送りつける。毎日いやというほど呑まなければ寝る場所さえ確保できないとなれば、忘れられない酒になるだろうからな」
悪戯っぽく笑うアキトに、リクヤは軽く眩暈を覚えた。これが冗談で済まないことは、過去の経験から重々承知している。実現させる気になられる前に、さっさと話題を変えてしまうに限る。
「では、模様替えの手伝いをさせられるという訳か?」
「ああ……そういう手もあったな」
思いつかなかった。その呟きがどこまで本気かは疑わしいが、これもハズレらしい。リクヤは参ったと白旗を上げた。
「お前の用件を推測してやろうとしたことが間違いだった。……それで、本題はなんだ?」
「そうだな。そろそろ夕食の準備が整うだろうし、その前に話は済ませておこう。こっちだ」
カウチから立ち上がったアキトは居間を出て回廊を抜け、三階へと続く階段を進んだ。普段、三階は商用取引に使用され、リクヤはここへは立ち入ったことがない。
いくつかある扉の内の一つを、アキトはノックした。中から小さく返答が聞こえる。どうやら女性の声らしい。……しかも年若い。
アキトの女性関係に巻き込まれるのかと、反射的に顔を顰めたリクヤに、アキトは鋭くその心中を読み取ったのか、いいから来いと手招いた。
室内は、確かに急ぎ設えられたものらしく、いささか殺風景だった。家具は一通り揃ってはいるものの、壁を飾るタペストリーや長椅子に並べるクッションなど、細々としたものが足りないのが見て取れる。内装は、重厚な趣で飾られたアキトの自室とは異なり、明るく開放的なイメージで整えられていた。
「兄様、お疲れ様でした。あの、わたしもやっぱり、荷解きとかお手伝いしようと思うのだけど」
部屋の中央には、アキトよりも年若い女性が佇んでいた。まだ少女と呼べる年齢でしかない。彼女は椿の花を手にしていた。机の上に置かれた花瓶の様子からして、花を飾っていたらしい。
「いいから、お前はこの部屋を過ごしやすく整えることだけに心を注いでいろ」
アキトの素っ気ない返答に、はいと殊勝に答えた少女ではあったが、それは少し物足りなさそうでもあった。
それにしても、かなりの美少女だ。艶やかな長髪は癖もなく腰まで伸ばされており、肌は白磁。金髪の多いデュルキスでは、どことなく異国風の美を持つ少女である。また、体つきはやや華奢であり、豊満な美女の多いこの街においては、儚いような印象を受けた。
こちらの視線に気付いたのか、遅まきながら少女はリクヤをその大きめの瞳に捉えた。慌て頭を下げ、アキトに紹介を頼む。
「……あの、そちらの方は?」
「ああ。俺の友人で、リクヤと云う」
「リクヤ・クィンティと申します。初めまして、姫君」
「こちらこそ、初めまして」
初対面の緊張からか口数は少ないものの、少女の礼は正しく躾けられた優美なものだった。そのことに内心で感心する。育ちの良さが動作で見えるというのは、生半可なことではない。
「カスミ・ザイツァール。俺の妹だ」
妹がいたというのは、耳ではないが、こうして改めて紹介されたのは初めてのことだった。いささかの感慨と疑問を感じているリクヤに、アキトは「頼みというのは他でもない」と、前振りもなく用件を切り出した。
そして続けられた台詞こそがアキトがリクヤを招いた本題であったのだが、それはリクヤの想像を遙かに超えたものだった。
「──リクヤ。お前に、カスミの保護者役を頼みたい」