比良坂・戒
俺は、目を覚ます。
上半身を起こし、安っぽいソファーのせいで凝り固まった身体をほぐす。
寝ぼけ眼で、さてどこで落ちたんだったかと自問する俺だが、その答えは周囲から響く歌声が教えてくれた。
ここは、カラオケボックスだ。
通りから外れた路地にあるその店は料金こそ安いが、壁とジュースはかなり薄い。今も右隣からは所々ハウリングしかかっているハイテンションなアニソンが、左隣からは毒にも薬にもならない流行りのポップスがそれぞれ聞こえてくる。
……不愉快だ。
寝起きの頭にこの騒音。うっとおしいことこの上ない。
俺は顔をしかめつつ、腕時計とレシートに目をやると、入店してから三十分程度で目を覚ましたのだとわかった。
時間的にはもう三十分居座ることはできるものの、所詮《幻夢》をやり過ごすのために入っただけ。これ以上長居したいとも思わないので、俺はすぐさま代金を払い店を後にする。
自然と足は、人通りのない方向へと向く。
腕を組んで歩くカップル。カラオケボックスの向かいにある喫茶店。空の青さ。何もかもが気に障り、とても人ごみの中を歩ける精神状態ではない。
……不愉快だ。
あの《幻夢》を見た後は、いつもそう思う。
《幻夢》の中での想いが、残り火になって胸の奥でくすぶっているのだ。
訳もなくとてつもない焦燥感に駆られ、名前も知らない誰かを探さなければいけないような気分になる。そして、自分の制御を離れて暴走する心に苛立ちが募る。
一旦火がつけば、自然鎮火するにはある程度の時間が必要だ。
全く。たかが夢のくせに、こうまで好き勝手に俺を振り回す。
「《幻夢症候群》――」
俺をさいなむ病の名を口にし、俺は眉間にしわを寄せる。
《幻夢症候群》。
それは睡眠障害の一種……と、されている。
妙に歯切れが悪い言い方だが、そうなってしまうのは《幻夢症候群》の症状が既存の睡眠障害とはあまりにもかけ離れているからだ。
《幻夢症候群》は《幻夢》という特殊な夢を見てしまう病気であり、精神的に不安定な人間――特に未成年が発症しやすい傾向にある。
《幻夢》は概ね以下のような特性を持つ。
第一に、《幻夢》は見る前に《幻夢》を見るのだ、とわかる。
患者は唐突に眠気に襲われ、何故かこれから《幻夢》を見るのだと自覚する。眠気は、最初は極々微かなものではあるが、時間を経るごとに段々と強くなっていき、10分もすれば抗いがたいものとなる。どんなに精神が強靭な人間でも耐えられて30分が限度であり、それまでに寝床を確保できなければ、場所に関わりなく眠りこんでしまうだろう。
第二に、《幻夢》の内容を忘れることはできない。
通常の夢は、起きてベッドから飛び出せばあらかた忘れてしまうものだが、《幻夢》に限ればそれは有り得ない。患者の頭の出来に関わらず、細部に至るまで完璧に覚えている。
無論、《幻夢》の内容の良し悪しも全く関係ない。
そして第三に、《幻夢》には確かなリアリティがあるのだ。
《幻夢》の中で得た五感や痛覚、感情などは鮮烈に心身共に刻み込まれ、個人差はあるものの、目覚めてからしばらくは残留し続ける。これだけならただの良くできた夢だが、《幻夢》の内容は何故か現実と整合性が取れていることが多い。
例えば、土地。もし《幻夢》中のある駅を目にしたとする。目を覚ました後に調べれば、その駅は実在するとわかる。
例えば、人物。実際に調べた駅を訪ねてみれば、《幻夢》の中で会った人物と駅前ですれ違うこともあるだろう。その人物を調査すれば、名前も容姿もまた《幻夢》の内容と一致する。
例えば、関係性。その人物がもし《幻夢症候群》の患者であり、同じ《幻夢》を共有していたならば、相手からこちらの存在に気づいて何らかの反応を示すかもしれない。
そう。共有。
有り得ないことのように思われるが、複数の患者が同じ《幻夢》を共有することもまた、確認されている事例なのである。
5年前、突然発生したこの病は、未成年の少年少女を中心に流行し始めた。
《幻夢症候群》を患った彼らは、元々不安定な時期にあったこともあってか、《幻夢》という起爆剤により暴発する。多くの患者は《幻夢》に溺れるように――あるいは《幻夢》から逃避するために非行に走った。それにより、治安は悪化の一途を辿り、社会不安は増大する。少年少女の不安は盛大に煽られ、《幻夢症候群》の患者は加速度的に増えていく。
要するに、悪循環である。
未だに見つからない治療法が発見されるまでは状況は悪化するだけであり、世の中には『どうしようもなさ』が満ち溢れていた。
《幻夢症候群》になってしまったから、《幻夢》を見るのは仕方ない。
《幻夢》のせいで抱いた感情や感覚に振り回されるのも、仕方ない。
不良が多いのも社会が不安定なのも全部《幻夢症候群》のせいだから、仕方ない。
たまらなく不条理な現実とそれに対する諦めが、《幻夢》から醒めたばかりの俺にとってはどうしようもなく不愉快で。
「クソがっ!」
とにかく、腹が立っていた。だから、目の前に転がっている空き缶を思い切り蹴り飛ばした。
空き缶は勢い良く飛んでいき、壁にぶつかった。見事な音を立ててはねっ返ると、暗く細い横道に消えていく。
その先でも何かにぶつかったようで、これまた見事な音がした。まるで何も入っていないものにぶつかったかのような音だった。
「――ッてぇなァ!? 誰だ、ゴラァ!」
直後その横道から怒声が響き、打てば響きそうな頭をした、赤い髪のチンピラが顔を出す。
……ああ。またやっちまったか。
と、俺はどこか他人事のように思っていると、チンピラは俺の襟首を掴む。そして、俺はあえなく横道に引きずり込まれていった。