009
笑みを絶やさないまま、エリザベータはエマに近づいていく。
と、唇がまっすぐに結ばれ、エリザベータは立ち止まった。
ゆっくりと、後ろを振り向く。
Jの体が、肩からぶつかるようにして、エリザベータの体にくっついていた。
そう見えた。
「逃げろ、エマ!逃げるんだ!」
必死の形相でJは叫んだ。
エリザベータの背中を透かして、エマの姿が見えてでもいるように。
「何のつもり?」
エリザベータの氷のような声など聞こえないのか、再びJは叫んだ。
「逃げるんだ!」
その瞬間Jの体が吹き飛んだ。
お父様!エマの悲鳴が聞こえたが、エリザベータは気にしなかった。
背中の、柄まで深々と突き刺さったナイフを、顔色一つ変えずに抜き取ると、そのまま床に落とす。
落ちた瞬間、ナイフの刃は粉々に砕け散った。
Jに刺された傷口は、もう完全にふさがっていて見つけることは出来なかったが、裂けた衣服は隠しようがなく、血で真っ赤に染まっている。
Jに飛び掛ろうとするナジャをエリザベータは制して
「どういうつもり?お父様」
「エマは人形ではない!」
返ってきた言葉に、エリザベータは困惑しているようにも、怒りを抑えているようにも見える、奇妙な表情を作った。
しかしそれはすぐに消えて――
「エマは私の大切な――」
「そう」
――にっこりと微笑んだ。
「じゃあついでに聞きたいのだけれど、答えてくれるかしら、お父様。なら、私たちはお父様にとって何なの?私とナジャは?」
Jは答えなかった。
目を大きく見開いて、陸に上がった魚みたいに、口を開いたり閉じたりしている。
そのうち、顔面から血の気が失せて、青を通り越して白くなる。
涙がにじんでいるまぶたが裂けそうに大きな目は、哀願するようにエリザベータに向けられている。
「お父様!」
その悲鳴に、Jはエマを見た。唇をわななかせ、必死に言葉をつむごうとする。
ニ・・・ゲ・・・ロ・・・。
逃・・・げ・・・ろ・・・。
エマがJの言葉に従ったことには気づいていたが、エリザベータはもう彼女にはかまわなかった。
「お父様」
微笑は絶やさず
「もうあなたに用はないわ。死んで」
エリザベータの言葉が終わると同時に、Jの体は宙にはりつけになってぴたりと静止し、倒れていった。
もう動くことはなかった。
エリザベータはJの背中を見下ろす。
Jの体から体温が抜けていくのが分かる。
冷たくなっていくのが分かる。
「リズ・・・」
指先にナジャの手が触れるのを感じた。
「リズ・・・」
しかし振り向かなかった。
「リズ・・・」
「何?」
三度目の呼びかけに、エリザベータはいつもの笑顔をナジャに向けた。
その微笑をじっと見つめてナジャは
「ううん。何でもない」
エリザベータの指先を、そっと握った。