008
あっ、と声を上げる間もなかった。
気づけばナジャが目の前にいて、反射的に身をかわさなければ、ナジャの爪で切り裂かれていただろう。
それでも頬をざっくりと切り裂かれてしまった。
ナジャは手を緩めない。
エマは防戦を強いられる。
攻戦に転じようにも、ナジャがそんな隙を見せるわけがない。
エマは必死にナジャの爪から逃れる。
しかし、かわしたつもりでも、危ういところでナジャの腕を受け止めたつもりでも、爪それ自体が意思を持ったように襲い掛かってきて、エマの肌を切り裂く。
瞬時にその傷は治癒していくのだが、それでも追いつかないほどに、次々に爪が襲ってきて、エマの全身を、彼女自身の血で真っ赤に染め上げる。
常人ならばとうの昔に失血死している。
どんなに切り刻まれようと、致命傷だけは何度か免れている。
死神の爪から逃れるため、肉体は機械的に動作し、そこに思考の入る余地はない。
思考など邪魔なだけだ。
ただ生き残るために肉体は動く。
エマの思考は浮遊している。
一体何をしているんだろうか私は。
別にナジャと殺し合いをしたいわけではないのに。
でも、もしナジャを殺さないと生きていけないのだとしたら、私はそれをするだろう。
ナジャを殺す。
でもそんなことがしたいわけじゃない。
私はただお父様と一緒にいたいだけ。
ただそれだけ。
なのになぜこんな馬鹿げた事をしなくちゃならないんだろう。
そうだ。
みんなエリザベータのせいだ。
エリザベータが邪魔をするから。
エリザベータが悪いんだ。
エリザベータがいけないんだ。
私の邪魔をして。
嫌いだ。
ナジャの体が吹き飛んだ。
壁に背中を強打しながらも、ナジャは見開いた目をエマに向けている。
「うそ」
呆れるべきか驚くべきか決めかねているような声をエリザベータは漏らす。
ナジャに生じたわずかな隙を、エマがたくみに捉えたわけではない。
放ったこぶしが偶然にもナジャの体を捉えたのだ。
幸運、である。
生まれた好機をエマは逃さなかった。
エリザベータに向かって飛び掛る。
エリザベータはもう、望むものを手に入れるための障害でしかなかった。
エマの行動がまったくの予想外だったのだろうか、エリザベータの反応は鈍い。
エマはためらわない。
伸ばした腕が――指が――爪が、エリザベータの青い瞳に突き刺さる。
――寸前、伸ばしたエマの指先がぴたりと止まった。
地に足を着いて、腰から腕――指先に向かってどんなに力を入れても、数ミリの間隔をあけて、エマの指先は宙に凍りつき、エリザベータの瞳をえぐることが出来ない。
ようやくエマの表情が今日が驚愕のものに変わる。
「どうして・・・」
「残念」
エリザベータがにっこりと微笑む。
途端、エマの体が吹き飛んだ。
奥の壁に激突し、崩れ落ちるエマ。
驚きを隠せないまま、エリザベータに目を向ける。
「エリザベータ・・・あなた・・・一体・・・」