050
かつては機械が占めていた空間も、今はがらんどうの廃工場。
そんな何もない場所で横たわる人影はいやでも目に付く。
ナジャはつかつかと人影に近づいていく。
いきなり側頭部に蹴りを入れた。
「起きろ」
何の反応もない。
強く蹴りすぎてしまったのだろうか。
いや、そんなはずはない。
しかし気持ちがもれてしまって、力が入ってしまったのかもしれない。
ナジャはエマが嫌いだった。
傍らに立ち、じっとエマを見下ろす。
ドスンと勢いよく、エマの上に馬乗りになった。
衝撃でエマの体が揺れる。
だがそれだけで、他には何の反応もなかった。
まるで仮死状態だ。
黒服たちの報告によれば、エマは『壊れた』らしい。
深い深い深いところで、意識を閉ざしてしまったのだ。
しかしそれではつまらない。
「起きろ」
ナジャは、エマの頬を張る。
「起きろってば」
二度ひっぱたいた程度では、目を覚まさない。
どうしたものか。
しばし考え、ナジャはにんまりと笑った。
「エマァ。早く目ぇ覚まさないとエッチぃことしちゃうぞぉ」
手のひらをエマの顔の前にかざし、手をわきわきさせる。
ゆっくりとエマの胸元に手を持っていくと、胸を揉みしだいた。
何の反応もない。
はああああ・・・。
ため息が深くなるにつれ、ナジャも深くうなだれる。
顔を上げたナジャの表情は、悩みを全て吐き出したようにさっぱりとしていた。
「もういいや」
まっすぐに伸ばした指先を、エマの顔に近づいていく。
しゃっ。
空気を裂く音がして、ナジャの爪が十数センチ伸びた。
爪の切っ先はエマの頬に触れているが、傷一つつけていない。
ナジャはじっと、エマの瞼が閉じた顔を見つめる。
「殺しちゃおう」
****
「がっかりだなあ」
おっとりとした間延びした声。
そこから悪意を聞き取ってしまう。
「あなたならリュウギさんを守ってくれると思ったのに。あなたにならリュウギさんを任せてもいいかなと思ったのに。これじゃあ死に損です」
声は暗がりの向こうから聞こえてくる。
「リュウギさんと一緒にいるために私を殺したんでしょう? なのにこれじゃああんまりです。覚悟が足りなかったですか?ああ、そういう問題でもないですね」
そこにいる、と確かに感じるのだが、姿は見えない。
「そんなに『ヒトゴロシ』ってつらかったですか。でもあなたはヒトじゃないですよね。ヒトの振りする必要なんてないですよね。ヒトではない、って自覚すれば少しは楽になるんじゃないですか?」
声は、暗がりそれ自体が発しているようにも思えた。
「どっちにしろ、今のあなたは役立たずですよね。だから選手交代しましょう。変わってあげます」
暗がりからぬっと腕が現われた。
「私がリュウギさんを守ります」
腕が伸びてくる。
指先が体に触れる。
ぬぷ、と体の中に入ってくる。
体の芯が震える。
おぞましい。
腕はもう半ばまで埋まっている。
叫びたいのにそれすら出来ない。
暗がりに中にいた人影が、今ははっきりと見える。
少女だった。
色素の薄い白い肌は、まるで光を放っているようで、それは強い光でもないのに、刺すような痛みを感じる。
少女の腕は、ついに肩口まで入ってくる。
黒い瞳から目を離せないほど、少女の顔が近い。
少女の顔が息になって肌に触れる。
「それじゃあ、この体、もらいますね」
そういって、にたりと笑った。
******
何の前触れもない絶叫。
突然、目を開き絶叫を上げたエマに、ナジャは驚いてしまった。
思わず腰が浮いてしまい、その直後、胸に、いまだ感じたことのない衝撃があった。
ハンマーを打ち落とされたような。
がっと視界は赤く染まり、意識は消えた。
ナジャの体が吹き飛ぶ。
壁に激突し、落下した。
動かない。ゆらりと立ち上がったエマの右腕は、肩口まで真っ赤だった。
滴り落ちる血は、すでに血だまりを作っている。
エマは、真っ赤に染まった背中を見せて、倒れたまま動かないナジャを、不思議そうに見ている。
視線の先にある空間は、時間を切り取られて存在しているような――そんな奇妙な感覚が、今のエマの中にはある。
視界に映るものから、エマは目を向けた。
それは文字通り、ナジャを見捨てる行為だった。
エマにはどちらか一方しか選ぶことが出来なかった。
妹を見捨てることになっても、エマには彼を選ぶことしか出来なかった。
廃工場を飛び出す。
「リュウギ!」
エマの叫び声に反応したのは、エリザベータだった。
のろのろと顔を向ける。
リュウギはうつ伏せに倒れている。
その体は血みどろ。
エマの声はおそらく届いていないだろう。
エリザベータは不思議そうに、エマを見ている。
白い顔が、血の気を失い、さらに白くなるのがはっきりと分かった。
「ナジャ!」
絶叫し、必死に廃工場へ駆けていく。
エリザベータが錯乱する――以前なら想像すらできないことだった。
罪悪感を覚えないではなかった。
その感情を、エリザベータへの怒りが相殺した。
エリザベータも、リュウギを殺そうとしたではないか。
「リュウギ!」
だがエリザベータに構ってはいられなかった。
エマはリュウギの元へと駆け寄る。
抱き起こすと、応えがあった。
「エ、マ…」
リュウギは気を失ってはいなかった。
死んではいない、と分かっていたが、それでもやはり安堵の息がもれる。
「リュウギ・・・。良かった・・・」
しかしすぐに心を切り替える。
「リュウギ。立って」
エマの厳しい声に、リュウギは何とか立ち上がる。
だが、立ち続けていることが出来ずによろめくリュウギを、エマは慌てて支えた。
泣き出しそうな顔で覗き込んでくるエマに、リュウギは痛みをこらえて、笑顔を向けた。
「大丈夫・・・」
それが強がりだということは分かった。
エマもそうだったからだ。
本当はゆっくりと休ませてやりたい。
だが状況がそれを許さない。
そうと分かっている。
それでも、エマ自身、もう心が挫けそうだった。
ナジャを手にかけた。
その事実はエマを怯えさせ、体の底から震えさせる。
エマこそが誰かの支えを必要としていた。
誰か、ではない。リュウギの支えを必要といていた。
だからエマはリュウギを守らなければならないのだ。
彼を危険から遠ざけなければならない――その思いこそが、今のエマを支えている。
エマとリュウギは互いに支えあい、歩き出した。
前方には白衣の男、数人の黒衣の男、数台の黒いセダン、そこに今、白いRVが加わった。
助手席から降りてきた人影を見て、リュウギが身を硬くしたことが、エマには分かった。
助手席から降り立ったのは、梁瀬いおだった。
いおは、エマに支えられてようやく立っている兄を、呆然と見つめた。
声をかけることが出来なかった。
何のためにここに来たのかも忘れそうになる。
リュウギは、決して、いおを見ようとはしなかった。
「行こう」
「ええ」
エマを促がし、歩き出す。
リュウギと、いおの距離が近づいていく。
やはり、リュウギはかたくなに、いおを見ようとはしない。
いおは、そんなリュウギに声をかけることが出来ない。
二人はすれ違う。
「お兄ちゃん。どうして…」
張り詰めたリュウギの横顔を見つめながら、いおは呟いた。
何も答えることなく、リュウギは歩き去っていく。
(お兄ちゃん。どうして・・・)
どうして無視するの。
どうして美香子を殺したの。
どうしてこんなことになったの。
「どうして・・・」
振り返る。
兄の背中が遠ざかっていく。
「お兄ちゃん!」
リュウギは振り返らなかった。




