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unhuman  作者: イナゴ
49/51

049

一夜明けても、エマは元には戻らなかった。


      ***


リュウギたちは今、町外れの廃屋にいる。

何かの工場だったのだろうか、かなりの広さがある。

機材は全て撤去されていて、寒々しいばかりの、がらんどうだ。

エマは今、眠っている。

目をつむり、呼吸も浅く長いものなのでそう考えるのだが、もしかするとそうではないのかもしれない。

瞼の裏の闇を見つめているのかもしれない。

しかし、リュウギの声にこたえることもないので、やはり眠っていると判断するしかない。

リュウギは眠っていない。

眠らずに一夜を過ごした。

そのことに負担は感じていない。

エマの状態を考えれば眠るわけにはいかない。

いや、本当は眠るのが恐ろしいだけなのかもしれない。

悪夢を見そうで。

どうせ眠れないのならば、その時間を無為にせず、町を遠く離れればいいのに、と考える。

二人は逃亡者なのだから。

なのにそれが出来なかった。

友人や家族――この町との思い出がリュウギを縛り付けている。

違う――ということに、リュウギ自身が気付いている。

いお――だ。

妹のことが気にかかっている。

いおは人ではなくなったリュウギを見てしまっている。

いおにとっても、それは悪夢としか呼べないものだっただろう。

それが、これからのいおの人生を狂わせるかもしれない――。

未練がリュウギを足止めしている。

いおと離れるのに抵抗がある。

もう二度と会えないかもしれない――。


リュウギの思考は中断された。

唐突に視線を感じた。

見られている。

しかし辺りを見回しても、誰もいない。

リュウギとエマ以外、人影はない。

なのに視線を感じる。

視線、という見えない線が物質化し、リュウギの皮膚に突き刺さっている――ひりひりと疼くような感覚がある。

気の迷いだと思い込むには、それはあまりにもはっきりと存在しすぎていた。

リュウギは耐えられず、立ち上がった。

外の様子を確かめに行く。

エマの側をひと時でも離れたくはなかったが、このまま見えない視線を意識しながらじっとしていることにも、耐えられなかった。

外に向かいながら、自分の神経過敏さを笑おうとする。

扉を開けてもそこには、誰もいないに決まっているのに。

重い鉄扉をあけたそこにリュウギが見たのは、数台の黒塗りの車、まるでその付属品であるかのような黒ずくめの男たち、白衣を着た一人の男、赤毛の小柄な少女と、彼らを従えるように立つ美女。

彼女は、今改めて見ると、エマに似ていた。

しかしそれは外見と、『人ではない』という、存在性だけだ。

「ようやくお出ましね。もしかしてお取り込み中だったかしら?」

気の利いた冗談を言ったつもりだろうか、女はくすりと笑った。

リュウギは笑わない。

「愛想のない男ね」

「何しに来た」

「おまけに口の利き方も知らない」

ぶすりと呟いた後、エリザベータはため息をついた。

そのため息は雄弁に語っていた。

『あなたとはもう話さないわ』

「何しに来た」

リュウギのもう一度の問いに、エリザベータはただ微笑みに見える表情を返す。

「決まってるだろ。お前らを殺しに来たんだよ」

答えたのは赤毛の少女だった。

それを聞いてリュウギは吐き捨てるように笑った。

それはそうだ。

相手は敵だ。

自分たちにとっては敵でしかない。

なら、対峙する理由は一つ。

滅ぼしあうこと。

だが、リュウギのその笑みは、ナジャには、自分たちに向けられた嘲笑としか映らなかった。

「リズ、あいつ私にやらせてよ」

「駄目よ、ナジャ。決めた事は守らないと」

「ちぇっ」

二人の会話から、赤毛の少女が、エマの相手をするのだということが分かった。

今のエマは、子供に抗うことさえ出来ない。

ナジャをエマのもとに行かせてはならない。

ナジャが、つかつかとリュウギに向かって歩き出した。

いや、目指しているのはリュウギの背後。

廃屋に眠っているエマだ。

このままの歩調なら、リュウギのすぐ横を通ることになる。

しかし身構えた様子はまるでない。

リュウギがおとなしくナジャを通すと思っているのだろうか。

いや、リュウギが手を出してきたなら、それを幸いにリュウギと闘う気なのだろう。

ならばその誘いに乗ってやる。

リュウギは、ナジャが間合いに入るのを待つ。

ナジャが近づいてくる。

「姉妹の再会を邪魔するような無粋な真似はやめなさい」

声がした。

視界が揺らいだ。

その一瞬、ナジャの姿が変わった。

黒い炎を纏った獣――両の目だけを赤く燃やしたヒトの形をした獣に。

しかしそれは一瞬で、我に返ったリュウギの目には、やはりナジャは赤毛の小柄な少女にしか見えなかった。

なのにリュウギは、傍らを通り過ぎていくナジャに、何も出来なかった。

ほんのさっきまでナジャを睨みつけていた視線は、今は彼女を視界に捉えようとはしていなかった。

ナジャはリュウギの存在などそこにはないかのように、彼の横を通り過ぎ、廃屋の中へと入っていく。

「愚かな男。人であることをやめたところで、何も変わりはしないのに」

耳元であの声がした。

リュウギは顔を上げる。

口角を少し上げた微笑の形で、エリザベータが見下ろしていた。

リュウギはよろよろと立ち上がる。

ぐらり、と眩暈がした。

エリザベータから得体の知れない不気味さを感じた。

ヒトでないことは分かっている。

それだけではこれほどの威圧感は覚えない。

人ではない――それは自分も同じだからだ。

それ以上の不気味さを感じるのだ。

美しいその容姿が、ずるりと薄皮のようにむけて、そこから得体の知れない何かが現われるのではないか――という不気味さ。

リュウギは、数歩、後ずさっていた。

エリザベータは微笑んでいる。

縛められたようにリュウギは動けない。

「どうしたの」

美しい声。

リュウギの体が、びくりと震えた。

「何もする気がないのなら、そこからいなくなりなさい」

かっとリュウギの顔が火照ったのは、羞恥のためだ。

そうだ、見えもしないものに怖気づいている場合ではない。

しっかりしなくては。

エマを助けなくてはならないのだ。

「あんたこそ、ここからいなくなって欲しいな」

エリザベータの微笑みが大きくなった。

ひどくうれしそうに見えた。

リュウギの言葉に満足したように。

リュウギの頭にかっと血が上ったのは怒りのためだ。

バカにして!

警告のない拳がエリザベータの顔面に飛んだ。

美しい微笑みはひしゃげ、頭蓋は砕け、頭部が粉々に吹き飛ぶ――そうなるはずだった。

リュウギの拳は、エリザベータの顔面を確かに捉えていた。

だが手応えはなかった。

空を殴りつけた感覚しかない。

エリザベータが攻撃をかわしたようでもない。

微動だにしていない。

完全に、エリザベータはリュウギの間合いのうちだった。

リュウギの拳は確かにエリザベータを捉えていた。

なのに無傷だ。

なのに微動だにしていない。

ざわ、と鳥肌が立った。

この女はヒトではない。

しかし自分とは違う。

エマとも違う。

何か別の――。

「どうしたの?もう終わりかしら」

だとしても。

エリザベータは目の前にいる。

存在しているもの破壊できる。

再びリュウギの拳がエリザベータの飛んだ。

同じことだった。

リュウギの拳はエリザベータを捉えていた。

エリザベータは無傷だった。

微動だにしていなかった。

リュウギは怯まなかった。

攻撃を繰り返す。

何度も拳を放つ。

同じことだった。

リュウギの拳はエリザベータを捉えているのにエリザベータは無傷で微動だにしていない。

リュウギの顔には、混乱と疲労と絶望と恐怖がある。

「気は済んだかしら」

リュウギは荒い息を吐くだけで、何も答えることが出来ない。

「では、死になさい」

シニナサイ。

エリザベータが言い終えると同時に、リュウギの体が跳ね上がった。

それほどの衝撃だった。

体の中で何かが爆発したような――実際、内臓のいくつかが破裂したのを感じた。

心臓ではない。

心臓では、いくらなんでも生きてはいないだろうから。

血を嘔吐しながら、リュウギの体が倒れていく。

受身を取ることも出来ずに、顔面から地面に衝突する。

血を吐く。

その中に混じる小さな塊は、肉片かもしれない。

破裂した内臓のかけら。

「まだ生きてるなんて。あきれた不死身ぶりね」

美しい声がふってくる。

混濁した意識の中でさえ、なぜかその声ははっきりと聞こえた。

それに、見えるはずのないものが、見えた。

リュウギの視界は赤く染まっている。

それは、地面に溢れている自分自身の血の赤と、眼球を覆う、破裂した毛細血管の赤だ。

そもそもリュウギの体はうつ伏せに倒れていて、背後を見ることが出来ない。

なのに見えた。

悠然と仁王立ちするエリザベータ。

黒い靄のようなものが見える。

ゆらゆらと揺れるたび、大きさを増す。

ついにはエリザベータを覆い隠すほどになる。

エリザベータの姿が、黒い靄の向こうに見える。

黒い靄は脈動をやめない。

形を成そうとする。

ヒトの形を成そうとする。

ケモノの形を成そうとする。

ヒトの形を成し、ケモノの形を成し、不定形の何かになった、それ。

それが浮き上がるような動きを見せる。

エリザベータが微笑んでいる。

「でも、それもこれでおしまい。さあ、今度こそ――」

それが、エリザベータから離れ、リュウギに覆い被さってくる――。

「リュウギ!」

聞こえるはずのない声が聞こえた。

身動きさえ出来ず、確かめることさえ出来ないが、それが誰の声かは分かった。

エマだ。

のろのろと視線を上げたエリザベータは、不思議な気持ちでエマの姿を見つめていた。

エマがそこにいるはずがない。

いるはずがないのだ。

いては、いけないのだ。

なぜならそれは、一つの事実を意味しているから。

エマがいるということ――。

それはつまりナジャが――。

エマの右腕は、真っ赤に濡れている。

頬も赤い。

胸も。

その三箇所が目立つ、という事であり、よく見ると全身のいたるところに血の跡がある。

そう。

――血。

それが、血だという事が分かる。

エマの血ではない、という事も分かる。

つまりそれは、ナジャの血。

「ナジャ!」

エリザベータは叫んでいた。

駆け出していた。

「リュウギ!」

そう叫び、駆けて来るエマには構わなかった。

二人はすれ違う。

エマはリュウギの元に駆け寄り、跪く。

エリザベータは開け放たれた廃工場の入り口の立つ。

以前は機械がほとんどを占めていただろうそのがらんどうの空間を、エリザベータは見ている。

エリザベータの視線の先の壁には、叩きつけたような血の跡があり、歪な線を引きながら、それは床へと降りていく。

床に何かの塊がある。

それは背を見せて倒れているヒト。 

信じられないほど真っ赤な背を見せて、倒れている、ヒト。

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