046
エリザベータは約束どおり、いおを、彼女の家まで送り届けた。
車から降りるいおに、エリザベータはこう言った。
「今日のことは忘れなさい。いいわね」
いおは何も答えなかった。
反論する気力もない。
「大丈夫。ぐっすり眠れば忘れられるわ。悪い夢でも見たんだと思ってね」
無責任に請け負うエリザベータを、いおは恨めしそうに見やった。
自室で一人になる。
家のは誰も居ない。
両親はまだ帰宅しない。
――ひとり。
静寂は、あの声を甦らせる。
人のものとも、獣のものともつかない、あの声。
耳を塞ぐ。
声は消えない。
目をつむる。
暗闇に一つの像が浮かんでくる。
梁瀬リュウギが人ではないものに変わっていこうとしている、その一瞬一瞬が、フラッシュバックする。
(今日のことは忘れなさい)
忘れたい。
忘れたいのに。
(悪い夢でも見たんだと思ってね)
白昼に見た悪夢なんだと、自分に言い聞かすことさえ出来たら。
あんな馬鹿げた出来事は夢に決まっている。
現実のわけがない。
なぜ自分をそうやって騙す事が出来ないのか。
受け入れたくない現実だというのに。
(ぐっすり眠れば忘れられるわ)
本当に?
夢とも幻とも思えないのなら、せめて忘れたい。
忘れさせてほしい。
そしていおは悪夢にうなされる。
目覚めは最悪だった。
すでに心身ともに疲れていた。
昨日の夜から様子のおかしい娘を、母が「学校、休む?」と心配したが、いおは「大丈夫」と気丈に振舞った。
学校を休むということは、またこの家で一人になるということだ。
それは嫌だった。
あの声、あの姿が甦り、今度は気が狂ってしまうかもしれない。
学校に行きたい。
学校に行って、友達に会いたい。
授業を受けて、おしゃべりをして、いつもの日常を送りたい。
そうしている間はきっと忘れられることが出来る。
あの夢は悪夢だったと思い込むことさえ出来るかもしれない。
母は最後まで心配してが、いおは気丈に振舞い続けた。
家を出る。
いつもと同じ通学路。
いつもと変わらない景色。
教室内の様子はいつもと違っていた。
静かだ。
気のせいか、すすり泣く声さえする。
「おはよう・・・」
雰囲気に呑まれ、元気な声が出ない。
いおは自分の席に向かう。
机を囲むように、友人たちが立っている。
田辺秋。
香川佐奈。
和久氷見子。
やはりいつもと様子が違う。
三人とも表情が暗い。
佐奈などは泣いている。
「おはよう。――どうしたの?」
すぐには返事はない。
「大木が・・・」
秋が辛そうに呟く。
「美香子がどうかしたの?」
美香子がここにいない理由。
どうせまた遅刻なんだろう。
ああ見えて美香子はこのクラスで一番の遅刻魔なのだ。
「大木が・・・」
秋の呟きは、やはりそこで消える。
佐奈が堪え切れなくなったように、泣き声を漏らす。
いおは面食らってしまう。
「ちょ、どうしたの?」
「大木が死んだ・・・」
ポツリ、と氷見子が言った。
「え?」
最初、何を言われたのかよく分からなかった。
大木が死んだ・・・?
「なにそれ・・・」
大木が死んだ・・・。
おおぎがしんだ・・・。
オオギガシンダ・・・。
「意味わかんない・・・」
大木が――。
「意味わかんないって言ってるでしょ!」
誰かの呟きに、いおは叫び返していた。
悲鳴に聞こえた。
しん、と室内が静まり返る。
その時
「どうした?」
担任教師が教室に姿を見せた。
「どうかしたか?」
誰も返事をしない。
生徒たちはそれぞれに自分たちの席に着く。
いおと、彼女の友人たちも。
教壇に立つと、教師は生徒たちを見渡す。
「おそらく、もうみんな知っていることと思う――」
いおは聞いていなかった。
いや、声は耳に入っている。
しかし雑音にしか聞こえない。
声と認識できない。
教師のほうを見てはいる。
しかしその姿はゆらゆらぐらぐらと揺れ、一定しない。
気分が悪い。
「梁瀬さん、大丈夫?」
その声もノイズとしか、いおには認識できない。
それでも、音のしたほうに、のろのろと顔を向ける。
いおを心配そうに覗き込む顔も、ぐらぐらと揺れている。
「本当に大丈夫?真っ青だよ」
彼女の言うとおり、いおの顔面は蒼白だった。
血が通っていない色だ。
いおは、ぼう・・・と彼女を見返す。
明らかに様子がおかしい。
「先生」
彼女は担任を呼ばわった。
保健室のベッドに横になっていても、気分がよくなるはずもなかった。
いおは、ぼんやりと天井を見つめている。
おもむろに起き上がる。
しきりになっているカーテンを引くと、見返してきた保険医に言った。
「帰ります」
「大丈夫?」
「はい」
短く答える。
いおは保健室を出た。
保険医はおそらく勘違いをしていた。
いおは教室に帰るわけではない。
とぼとぼと、一人、教室に向かう。
ホームルームはもう終わっていた。
クラスメイトたちが声をかけてくる。
「大丈夫?」
「まだ顔色悪いよ」
「無理しないほうが」
「平気。大丈夫」
力ない声で答える。
自分の席に向かう。
朝と同じように三人が待っていた。
「大丈夫か?」
うん、と頷いて、いおは秋に答える。
「でも今日はもう帰る。なんだか・・・」
言葉が続かなかった。
「そうか」
秋が頷く。
「分かった。先生には私がちゃんと言っておくから」
「うん。お願い・・・」
弱々しく笑みを見せる。
教室を出て行くいおを、三人は心配げに見送る。
朝は、早く学校に行きたいと思っていた。
日常の中にいたかったのだ。
いつもと変わらぬ日常の中に。
だが今は違った。
学校に痛くなかった。
まるで何事もなかったように、日常を送ることなど出来なかった。
美香子が死んだ・・・。
***
校門を出る。
いおの力ない足取りは数メートル先で止まった。
彼女がいた。
エリザベータと名乗った女性。
昨日、いおを悪夢へと導いた張本人。
傍らには、路肩に寄せて白いRVが止まっている。
「乗って」
やはりその声には、断られることを知らない尊大な自信が込められている。
いおは力なく頷いた。
戸惑うことも、拒絶することも、今のいおには出来なかった。
いおを乗せ、車は静かに走り出した。
いおは、エリザベータとナジャに挟まれる形で座っている。
運転しているのはやはりイザクで、助手席にいるのはケント。
しかしそれを確認することもなく、いおはただ俯いている。
「今日は何ですか・・・」
膝の上で組んだ手をじっと見つめながら、いおはポツリと言った。
力ない言葉。
明らかに顔色は悪い――。
しかしエリザベータが、いおを気遣うことはない。
「あなたに見せたいものがあって」
一枚の写真を取り出し、それをいおの握った手の上に乗せる。
いおはその写真を見るしかない。
床に仰向けに倒れている少女を、上から見下ろすように取った写真のようだ。
少女はだらりと四肢を伸ばしている。
着ている制服には見覚えがあった。
同じ高校のものだ。
なぜか制服はどす黒く濡れていた。
対して少女の肌は、気味が悪いほどに白かった。
少女は写真の中から、ぼう・・・と、いおを見返している。
ほとんど閉じられた瞼の向こうから、瞳はこちらを向いている。
かすかに開いた唇から、何か、言葉を吐き出そうとしたことが分かる。
だが言葉を紡げないままに、少女は死んでしまったのだ。
写真の中にいるのが、すでに物言わぬ、命をなくした、人の肉体、なのだということが、分かった。
大木美香子、の、死体、なのだと、いう、ことが、わ、か、った。
「いや!」
電流を浴びたように、いおは写真を払い落とした。
「いお」
「いやああああああああ!!!」
車内に絶叫が響く。
「いやああああああああああああああ!!!!!」
「うるさい」
耳を塞ぎながら、ナジャがポツリと漏らす。
「いやああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
全部座席にいる二人――イザクとケントは、まるで自分たちの背後で何も起こっていないかのように静かだ。
狂ったよう場叫び声はやがて消える。
いおの口からは、もうかすれ声しか漏れていない。
「いや・・・いや・・・」
身を二つに折り、手のひらに顔を埋めているいおの背に、エリザベータの視線は向いている。
その表情は静かだ。
そこから彼女が何を考えているか、読み解くことは出来ない。
静寂。
「どうして・・・」
いおの小さな声。
「どうしてなんですか・・・」
その後に言葉は続かない。
しかしエリザベータは答える。
「あなたに本当のことを教えてあげようと思って」
エリザベータはいおの返事を待ってはいない。
「あなたのお友達をそんな姿にしたのはね、あなたのお兄さんよ」
少女の言葉を待つ。
いおはどんな答えを返すだろう。
「・・・嘘です」
「本当よ」
エリザベータはうれしそうに笑った。
「もっとも、あなたのよく知るお兄さんではなくて、『あの』お兄さんだけどね」
『あの』――梁瀬リュウギ。
人ではなくなった、梁瀬リュウギ。
黒い肌。
赤い目。
あのときの梁瀬リュウギの姿が甦る。
「おろしてください」
いおの声は小さくても、弱々しいものではなかった。
「・・・おろして」
「イザク」
車内の空気がぴんと張り詰める。
イザクはハザートランプを点けると、車を路肩に寄せる。
いおは駐車した車から無言で降りる。
エリザベータもいおに言葉をかけない。
乱暴にドアを閉めると、いおは車に背を向けて歩いていく。
車は再び車道に戻る。
いおがいなくなるのを待っていたように、ナジャが口を開いた。
ふてくされている。
「リズ、なんだか楽しそうだった」
「そうね。確かに虐め甲斐はあるわね、あの子」
「ふーん」
ナジャは口を尖らせる。
その理由をエリザベータはもちろん分かっている。
「なあに?やきもち?」
「ちがぁう」
ぷうぅと頬を膨らますナジャに、エリザベータは微笑む。
そして、ふと車外を見やる。
その面から微笑は消えていた。
胸の奥がもやもやとする。
心がすっきりとしない。
「何?」
だからだろうか、エリザベータが突然上げた声は冷たく響いたし、ルームミラーにやった視線もきつかった。
ミラー越しに、慌てて顔を伏せたケントが映る。
「どうしたの?言いたいことがあるなら、はっきりといいなさい。ケント」
「いえ、たいしたことではないんです」
ケントは、ばつが悪そうにしながらも
「何か考え込んでおられるように見えたものですから」
「別に。何も」
「そうですか」
エリザベータのそっけない返事にもくじける様子もなく、ケントは続ける。
「エリザベータ様は、どうしてヤナセイオに会おうと思われたのですか?」
「特に理由はないわ」
またしてもそっけない返事。
だが今度は言葉を続けた。
「単なる好奇心、ただの興味よ。親友が義理の兄に殺されたと聞いて、あの子がどんな顔をするのか、見てみたかったのよ」
「そうですか」
聞きたいことは聞いた、とばかりに、ケントが言葉を続ける様子はなかった。
「それだけ?」
「はい」
「つまらないわね」
「すみません」
がっかり。
ケントの返事を聞いて、そんな感情を覚えた自分に、エリザベータは驚いていた。
ケントの言葉に、何かを期待していたということだろうか。
腹の底が落ち着かないこの気分を消してくれる言葉を、期待していたということだろうか。




