045
「あの・・・ちょっと、お手洗いに・・・」
もじもじと恥ずかしそうに言って美香子は席を立ったわけだが、もちろんその言葉は嘘だった。
美香子は美術室を抜け出すと、まっすぐ玄関に向かい、靴を履き替え、正門を抜け学校を抜け出した。
部員仲間が追ってくる様子はなかった。
騙せたとは思っていない。
部長の伊達勢はともかく、副部長の清水レイナを騙せたとは考えられない。
なのに誰も追ってこないということは、見逃してくれたんだと、美香子は理解していた。
半ば強引に連れてきた事を、少しは悪く思っていたということだろう。
美香子はリュウギのアパートに向かった。
***
ドアを見つめる見顔の視線には迷いがあった。
ここまで来て、美香子は迷っているのだ。
ドアの向こうには、梁瀬リュウギがいる。
そして多分、エマも。
ドアを開けば彼女と顔を合わせることになるかもしれない。
そう考えると次の一歩が踏み出せない。
いおが側にいれば、いつもは強気でいられるのに。
美香子は目をつむった。
いおが隣に立っているのだと想像する。
『ここまで来て怖気づいてどうするの。ばしんと行きなさい。ばしんと!』
女は度胸よ!
そういって美香子の背中を押してくれた気がした。
うん。
美香子はうなづく。
目を開けると、意を決してチャイムを押した。
しばらく待ったが、何の反応も返ってこなかった。
この前のように居留守だろうか?
いや、決め付けてはいけない。
『どうせぐだぐだして、部屋に閉じこもってるわよ』
いおの予想は見事に外れていたわけだ。
美香子は未練がましくドアを見つめている。
いおのようにチャイムを連打するのは、それでも躊躇われてしまう。
だからといってこのまま帰ってしまうのも悔しい。
書置きでもしておく?
あつかましい女、鬱陶しい女と思われないだろうか。
今日は日が悪かった。
自分をそう納得させるために、回らないことを予想して、ドアノブに手をかけた。
ドアが開いた。
最初に戸惑いがあった。
鍵を掛け忘れたままどこかに出かけてしまったのだろうか。
あるいは鍵をかけないまま、部屋の中にいるのだろうか。
「リュウギさん・・・」
名を呼んでみる。
返事はない。
「リュウギさん」
もう一度呼んでみる。
やはり返事はない。
物音一つしない。
誰かがいる気配はない。
どうしようか・・・。
美香子は悩む。
このまま帰るべきなのだろうが、鍵を開けたまま、というのが、気が引ける。
だからといって、ずっとリュウギが戻ってくるまでここにいるわけにもいかない。
どうしようか・・・。
美香子には後者を選ぶことは出来なかった。
部屋を出るしかないと思った。
部屋を出て、そして――と、ここまで考え、名案が閃く。
いおに相談しよう。
いおに相談すればいいのだ。
それで彼女が部屋で待っていろと言えば、堂々とそれが出来る。
我ながら名案だ。
ケータイを取り出そうとしたとき、背後に苦しそうな吐息を聞いた。
はあ、はあ、はあ、と聞こえてくる。
美香子の体は硬直する。
気のせいだ、気のせい・・・。
心にそう繰り返しながら、恐る恐る振り向く。
赤い人影が立っていた。
「き」
悲鳴は喉の奥でつまる。
廊下にしりもちをつく。
後ろ手に必死に後ずさる。
赤い人影は動かない。
人影を赤く染めている原因――全身を染める血の臭いが押し寄せてくる。
涙を流し続け、かすれた悲鳴を漏らし続ける。
美香子はパニック状態だった。
それでも、その声が届いたということは、眼の前に立っている赤い人影に見覚えがあることを、無意識に理解していたのかもしれない。
「・・・美香子ちゃん」
赤い人影はそう言った。
美香子は改めて人影を見る。
リュウギだった。
梁瀬リュウギが立っていた。
リュウギは両腕で誰かを抱えていた。
目を閉じ、ぐったりしている。
苦しげな荒い息は彼女から聞こえてくる。
血まみれのエマ――。
いつの間に眠ってしまったのだろうか。
美香子はぼんやりと考える。
こんな夢を見るなんて。
――悪夢を見るなんて。
「美香子ちゃん・・・」
夢の中でリュウギが呟く。
「ごめん」
リュウギの瞳が赤く染まる。
その瞳を見た瞬間、美香子の全身から力が抜けた。
ごつ、と後頭部が床にぶつかる。
気付けば美香子は仰向けに倒れこんでいた。
起き上がろうとした。
無理だった。
体に力が入らない。
「エマ、彼女ならきっと大丈夫だから」
リュウギの声が聞こえた。
それに答えるように、ハアハアハア、というエマの荒い息。
しかしそれは先ほどまでの苦しげなものではなく、体のうちから来る痺れを堪えているような響きがあった。
ハアハアハア。
荒い息は絶えることなく聞こえる。
近づいてくる。
ハアハアハアハア――。
血まみれのエマの顔が、ぬっ、と視界を覆った。
美香子は悲鳴を上げたつもりだったが、その自由すら奪われているようだった。
両肩を、エマの手が信じられない力で、押さえつけてくる。
下半身もエマの両足でがっしりと挟み込まれ、腰の辺りにエマが体重をかけてくる。
馬乗りにされた格好。
振り払おうとしても、エマは岩のように重く、それ以前に力が入らない。
ただエマの吐く乱れた呼吸――そこには隠しようもなく甘く震える響きがある――を聞きながら、エマの顔を見ていることしか出来なかった。
血だらけのエマの顔。
その目さえも赤くなっていることに、美香子は気付いた。
まるで赤いビー玉を眼窩にはめ込んだように。
ハアハアハア。
いつしか美香子も荒く息を吐いていた。
それは恐怖からのものではなく、エマと同じ息遣いだった。
快楽の息。
エマは、立てていた膝を折るように、美香子の上に寝そべり、体を密着させる。
鼻の頭が触れ合うほどの近くで、エマと美香子は見つめ合う。
ハアハアハア。
二人の荒い息が混じる。
ふいにエマは視線を外す。
美香子の肌には触れず、しかし唇で肌の上をなぞるように、首筋にまで下りていく。
エマの息遣いがいっそう荒くなる。
赤く濡れた唇を、肌に強く押し付ける。
きつく口づけを繰り返す。
美香子の首筋に噛み付く。
容赦なく歯を立てる。
痛みを感じたはずだった。
激痛を感じたはずだった。
エマに首筋を噛み切られ、血があふれ出しているのだから。
しかし美香子が上げた声は悲鳴ではなかった。
甘い声。
愛撫を受け入れる、女の甘い声だった。
エマが首筋を舐り、血を吸い上げるたびに、美香子は小さく、切れ切れに、しかし明らかに悦楽に浸る甘い声を漏らす。
美香子はそんな自分を意識していた。
エマの行為にも、自分の反応にも、嫌悪していた。
エマのそれは、人の行為ではありえなかった。
首筋に歯を立て血を啜る――その行為は吸血鬼のもの。
それに対して美香子の体は小さく悶え、あえぎ声で答えている。
美香子は自分の口から漏れるいやらしい声を止めようとした。
無理だった。
体が言うことをきかない。
肉体の支配権が奪われてしまっている。
ひっきりなしにいやらしい声を漏らす自分に、美香子は嫌悪感しかもてなかった。
好きな男が相手でもないのに、悶え、はしたない声を上げる。
いや、エマは男でも女でもない。
人間ではない。
あの赤い目が人間のものであるはずがない。
何より人の生き血を啜る存在が、どうして人と言えるのか。
ではエマは何なのだ。
人ではない人。
――そうだ、バケモノ。
バケモノとしか呼びようがない――。
「あっ」
美香子は声を上げる。
甘い声。
あえぎ声。
いやらしい声。
あ、あ、あ、あっ、と小さく切れ切れに声を漏らす。
身をくねらす。
しかしそれはエマから逃れようとする動きではない。
もっと強く組み敷いてほしい、そう求めているような動きだった。
エマはそれに答えるように美香子の肩を押さえつけている手に力を込め、さらに体を密着させ、まるで飢えた獣のように、美香子の首筋をねぶり、歯を立て、溢れ出る血を舌で掬い取り、飲み下していく。
あ、あ、あ。
美香子は声を上げ続ける。
しかしそれがだんだんと、弱々しく消え入りそうなものに変わっていく。
美香子は、今、自分の命が消えていこうとしているのを、感じていた。
死が、もうすぐそこまでやって来ている。
嫌だ・・・嫌だ・・・こんなの・・・。
美香子はリュウギの姿を探す。
リュウギは赤い瞳を、じっと美香子とエマに向けている。
何かに耐えているような表情。
リュウギさん・・・リュウギさん・・・リュウギさん・・・。
救いを求める。
だがリュウギの表情は変わらない。
美香子の声は届かない。
リュウギに何とか気付いてもらおうと、美香子は力を振り絞る。
気が遠くなる。
意識が消えていく。
美香子の腕が小さく震える。
指が、何かを掴もうと、かすかに動く。
「リュ」
息を吐くように、美香子の唇からその一音が漏れ、彼女の呼吸は止まった。
それでもリュウギの表情は変わらなかった。
エマは、美香子の息が止まったことにも気付かず、首筋を舐り、血を啜っている。
しかしやがて満足したのか――
はあああ。
と長い息を吐く。
目の焦点が定まらない惚けた表情で、二度三度と長い吐息を繰り返していたが、はっと我に返ると、ゆっくりとゆっくりと、美香子の体から身を離す。
美香子は唇をかすかに開いていた。
うつろな目は一点を見つめている。
息をしていない。
美香子は死んでいた。
自分の体の下に、なぜ少女に体が物体としてあるのか理解できない、という表情を、エマはした。
「ふ」
エマの唇から声が漏れる。
「ふふ・・・ふふふ・・・」
やがて静かに笑い出す。
「ふふふ・・・ふふふふ・・・」
乾いた笑い声。
泣いているような笑い声だった。
「私・・・とうとう・・・」
こうなることをずっと恐れていた。
人の生き血を求める――その行為によっていつか誰かを殺めるのではないかと。
Jの血を求めるとき、エマはいつも自分自身に言い聞かせていた。
決して満足するまで求めてはいけない。
だから少し、少しだけ、ほんの少しだけその赤い血がほしい・・・。
初めてリュウギと会ったときも、発作的に彼の血を求めてしまったが、すぐに我に返ることが出来たため、事なきを得た。
そして今日――
リュウギに、俺の血を吸え、と無言で迫られ抱きしめられたとき、エマの中には恐怖が湧き上がった。
自分の欲望を――限りなく血を求めるあの渇きを止められない――そんな確かな予感があったからだ。
エマは欲望を抑えることが出来ずにリュウギの血を求めた。
だが、エマの体はリュウギの血を拒んだ。
魂が擦り切れるような渇きも癒えなかった。
そのとき初めて、エマは死というものを意識した。
不死者としてして生まれた自分でも、それではやはり死から逃れることは出来ないのか。
たとえ何者であろうと、生きている限り死は約束されているのだろうか。
答えなど分かるはずもなかった。
自らの死を迎えない限り。
しかし自分の死を、その瞬間を知ることは出来るのだろうか。
無理だというなら、人は永遠に己の死を知ることはないだろう。
知るのはただ、他人の死だけで・・・。
頭の中がどろどろに溶けてしまったように、思考がまとまらなかった。
気付いたとき、目の前に一人の少女がいた。
彼女は生贄だと、エマは気付いた。
リュウギが用意してくれた、生贄。
そうだ――。
エマはそのとき初めて、生、というものを意識した。
そうだ。
私が死ぬわけはない――死にたくない――生きたい――。
そして一人の少女を殺した。
「ふ。ふふふ」
乾いた笑い声は止まらなかった。
じっと少女の死に顔を見つめるエマの笑い顔は、冷たく凍り付いていた。
何がそんなにおかしいのか。
自分でも分からない。
笑いが止まらない。
「ふふふ・・・ふふふふふ・・・」
うつろに笑い続けるエマの背中を、リュウギはじっと見つめることしか出来なかった。
「ふふふふ・・・ふふ・・・はは・・・」
虚ろなな声は、消えない。
「ふふふふふ・・・は・・・はははは・・・」




