044
いおに知られてしまった。
いおに、ヒトではなくなってしまったことを知られてしまった。
エマが今、危険な状態であることは分かる。
早く助けなければ――焦りはある。
しかしそれよりも、妹に知られてしまったことへの絶望のほうが大きかった。
だが、今リュウギの中にある感情は、それだけではない。
絶望と、怒り――後悔や悲しみがないまぜになった怒りだ。
エマと出会わなければよかった――『エマと関わるな』――いおの忠告を聞いておけば良かった――人のままでいられたろうに――エリザベータというあの女――どうしてあの女はいおの側にいられる、どうしていおはあの女が側にいても拒絶しない、俺の――人ではなくなった俺の姿には、あんなに脅え慄いていたのに――
『くっそおおおおおおおおお!』
リュウギは叫んだ。
実際に彼が出した声は、人より獣に近いものだった。
あるいは地上を歩く人々のうち、はるか頭上からの奇怪な声を聞いた者もいたかもしれない。
リュウギに体は、自由落下していく。
その赤い目は、すでにエマを串刺しにし、彼女の上にのしかかる男の姿を捉えていた。
ある感情が湧き上がってくる。
黒い感情。
殺意。
(コロス)
だが、その殺意はエリザベータに向けられたものかも知れず、あるいはエマに向けられたものかも知れず、もしかすると、いおに向けられたものでさえあったかもしれない。
ありえない高度からの飛び蹴りを受けて、男はどんな死に様を見せてくれるだろうか。
リュウギは薄く笑う。
だがそう簡単には、ことは運ばないようだった。
リュウギの足が男の脳天を砕くと見えた瞬間、男は大きく飛びのいていた。
リュウギは着地と同時に深く身を沈める。
鋭い突きが繰り出され切っ先がリュウギの頭皮を削る。
落ちてくる斬撃を横飛びにかわしざま、地についた手を支点に身を半回転させる。
間髪おかず正確にリュウギの首筋を狙って横なぎに襲ってくる剣をかわすことは出来なかった。
楯をかざすように腕を上げる。
ざくりと刃が肉を抉る。
骨を断つことは出来ずに刃はぴたりと止まった。
男は驚愕する。
リュウギは腕の半ばまでを裂いている剣を抜こうともせずに、無表情に腕を引いた。
男はバランスを崩す。
彼はここで剣を放すべきだった。そして大きく飛びのくべきだったのだ。
リュウギが拳を男の顔面に放つ。
湿った破裂音がして、男の体が中腰のままよろよろと後ずさり、背後に倒れこんだ。
その体に頭部はなかった。
死体からは際限なく血が溢れ続け広がっていく。
死体を中心に赤い血だまりが出来ていく。
リュウギは死体には目もくれず、いまだうつ伏せに倒れたままのエマを見下ろす。
「エマ・・・」
たった二文字を言葉にするのさえひどく苦労する様子で、しかし彼女の名を呼ぶと、リュウギは跪きエマを助け起こす。
「エマ・・・」
「リュウギ・・・」
弱々しい応えがあった。
リュウギはエマを木の幹にもたれかけさせる。
衣服はべっとりと血で赤い。
乾ききらない血が強く臭気を放っている。
しかし傷口はすでにふさがっているようで、新たな血が流れ出てくる様子はない。
エマの顔色は悪い。
もともと生気の薄い白い肌が、さらに生気を失って、白い。
薄く開かれている目は、しかしもう赤くはなく、人の目に戻っている。
じっと見つめるリュウギの視線に答えるように、エマは弱々しく笑う。
「すごいでしょ・・・、こんなになっても、私、死なないのよ・・・」
リュウギは何も答えない。
ぶるっ、とエマは震える。
「寒い・・・」
震えが止まらない。
急激に体温が抜けたせいだ。
頭の隅で冷静に考える自分が、すごく嫌だった。
リュウギはエマの正面に跪いた。
腕を伸ばしエマを抱きしめる。
エマは困惑する。
こんなときだというのに胸を高鳴らせる。
しかしリュウギの意図を知ると、抵抗の声を上げる。
リュウギはエマの口元が、自分の首筋に当たるように抱き寄せた。
「やめて」
リュウギの応えはない。
エマは身を離そうとするが、肩と後頭部を押さえつけられ、それも出来ない。
「リュウギ、やめて」
抵抗の声を弱々しく上げるしかない。
しかしリュウギはいっそう強くエマを抱きしめ、彼女の唇に自分の首筋を強く押し付ける。
リュウギの首筋までをべったりと濡らしている血が、エマの頬を汚す。
「やめて」
その声は悲鳴に近くて――
「やめて、リュウギ・・・。本当にやめて」
――震え慄いている。
リュウギはますますエマを強く抱き寄せる。
エマは、顔を首元に押さえつけられ、息も満足に出来ない。
身を離そうにも、やはりリュウギの手が後頭部にしっかり当てられている。
息苦しさにもがくエマ。
抵抗からの動きとは違うと感じたのか、リュウギは腕を緩める。
やっとのことで密着状態から開放されて、エマは大きく息をつく。
むせ返るような血臭も一緒に吸い込んでしまう。
鼻腔の奥を突く異臭。
血の匂い――。
視界が全て真っ赤に染まってしまうような感覚――。
体の奥が熱を持ったように熱い――。
再びきつく抱きしめられる。
頭はくらくらし、体は火照り、眩暈さえする。
血の匂いが鼻孔を通り、腹の底に落ちていく。
目の前に、リュウギの首筋。
彼自身の血で赤く濡れている。
ああ・・・。
エマは、知らず吐息していた。
この血を舐めれば、どんな美味が喉に広がるだろう。
エマの唇を割って舌が伸びる。
まるで軟体動物のように、リュウギの肌の上を動く。
行儀の悪い子供のように、ぴちゃぴちゃと音を立てる。
血は甘かった。
エマの体の芯を焼くほどに・・・。
もっと。
もっと欲しい。
甘くて、熱い、この血が。
エマはリュウギの首筋に歯を立てる。
ぐっと顎の力を入れる。
リュウギが短く呻いて、エマをさらに強く抱く。
息苦しさも心地よく感じながら、エマの白い歯は、リュウギの皮膚を破り肉に食い込む。
血が噴出し、口の中に溢れ、流れ落ちる。
ああ・・・。
あつい吐息は声にならない。
エマは本能の命じるままに、さらに歯を立て、溢れ出る血を飲み下す。
その行為は快楽そのものだ。
脳天から尾骶骨までをひっきりなしに電流が走っているような感覚。
ああ・・・。
快楽に震える吐息はやはり声にならず、エマは鼻息も荒くリュウギの首筋に噛み付きながら血を舐めとり飲み下す。
この快楽を拒もうとするなんて私はなんと愚かだったのだろう。
リュウギは抵抗することもなくエマの行為を受け入れている。
声を漏らすまいと強く歯を食いしばっている。
口を開けば漏れるのは甘いうめき声だろう。
リュウギの中でも快感が渦巻いていたのだ。
体の芯をゆっくりと抜き取られていくような、おぞましくも抗うすべのない快楽。
火花が散るような快感があった。
「う」
こらえきれず声を漏らし、歯をさらに強く食いしばり目を閉じる。
瞼の裏でちかちかと閃光が瞬いている。
光が瞬くたびに体が小刻みに動いてしまう。
瞼の裏ではじける光から目を逸らすことはできない。
不規則に走る快感から気を逸らすため、リュウギは逆に光を見つめる。
光が明滅するたびに映像から浮かび上がってくるような気がした。
それは室内の様子を写している――よく知っている部屋――一人の少女が立っている――その後姿にも見覚えがある――映像が流れ落ちるように消える。
一緒に意識まで消えていくような感覚があり、リュウギははっと目を開け、慌ててエマを突き放した。
リュウギに突き放されたことも気付いていない様子で、エマは幹に背を預けぼんやりとリュウギを見ている。
エマを見返すリュウギの目はもう赤くなく、肌も黒くはない。
人の姿に戻っていた。
エマに噛まれた首筋の傷はすでに見当たらない。
頭の傷からもすでに血は止まっているが、リュウギの全身は血だらけだった。
そんなリュウギを見るエマの目は熱に潤んでいる。
「リュウギ・・・」
「エマ・・・」
エマの行為をもう一度受け入れ、あの快楽に身を浸したい。
リュウギは誘惑に負けそうになる。
突然エマが身を折った。
口元を手で塞ぐ。
咳き込むようにしたかと思うと、血を吐いた。
二度三度と血を吐き、ついには両手を地面につく。
大きくえずいて大量の血を吐き出す。
エマの口から血がびちゃびちゃと落ちていく。
エマを埋めるための赤い穴をうがつように、血が広がっていく。
「エマ!」
リュウギの悲鳴。
直感的に理解した。
これは拒絶反応だ。
エマの体はリュウギの血を受け入れなかったのだ。
エマはぐったりと木にもたれかかる。
「私、このまま死ぬのかな」
ぼんやりと呟く。
「それもいいかもね」
リュウギは恐ろしくなった。
エマのその言葉が、予言のように聞こえたから。
剣で串刺しにされても死ななかったエマが今、死の誘惑を受け入れようとしている。
そんなことはさせない。
許さない。
俺をバケモノにしておいて、その罪から永遠に逃れようとすることは許さない。
エマには責任がある。
俺の側にいる責任がある。
俺と生きていく責任がある。
「エマ、弱気になっちゃ駄目だ」
自分の言葉がうつろに響くのをリュウギは聞いた。
エマを気遣うようなことを言ったところで、所詮は自分のことしか考えていない。
怖いのだ。
エマを失うことが。
そのことに耐えられない。
熱に浮かされたような顔でエマはリュウギを見上げ、弱々しく微笑んだ。
リュウギはそれがなぜか嘲笑に見えた。
心のうちを全て見透かされているような気がした。
エマを抱き上げる。
今、エマが自分に対し何を思っていたとしても、気にはしない。
リュウギに迷いはなかった。
エマを死なせない。
死なせたくない。
そのためにはどんなことだってする。
リュウギは自分がとるべき行動を理解していた。
エマに血を吸われている中で見たビジョン――よく知っている部屋――そこに立つ、見覚えのある後姿――。
そのビジョンが教えてくれている。