043
リュウギはもう、立っていることさえ出来ない様だった。
膝を突いて背を丸め、うずくまっている。
うめき声を漏らしながら、苦痛に震えている。
まるで全身を切り刻まれているかのようだ。
腹を裂かれ、傷口から手を入れられ、内臓をもてあそばれているかのような悪寒。
胸を切り開かれ、あらわになった心臓が、今にも握りつぶされようとしているかのような恐怖。
全てがないまぜになった苦痛に、リュウギは喘ぎ、身を縮めることしか出来ない。
視界はぼやけ、目に映るものに色彩はない。
コンクリートについた手は、リュウギの目にどす黒く映っている。
血管は手の甲に赤く浮き出ている。
視力が変調をきたしたせいではないと分かった。
変わろうとしているのだ。
人ではないあの姿に。
あんな醜い姿を、いおに見られるわけには行かなかった。
もう自分が人間ではないことを、知られるわけにはいかなかった。
見るな・・・いお・・・。見ないでくれ!
叫んだつもりでも、口から漏れるのは苦痛に耐える声だけだ。
コロス。
声が、突然頭の中に響いた。
鷲掴みにされていた心臓が握りつぶされる――リュウギはそれを見た気がした。
それは命が消える瞬間――リュウギは死を実感した。
恐怖も絶望もそこには伴わず――死、というあまりにも絶対的なものをただ受け入れるしかない――諦観さえも湧き上がることはない。
人の感情など、底なしの黒い闇に吸い込まれていく。
それでも、その闇の底で、静かに横たわる自分と同じ顔をした死体を見たような気がして、ざわりと腹の底が蠢くのを感じた。
ばね仕掛けでも働いたように、リュウギの体が大きくのけぞる。
「GAAAAAAAAAAAAAAAAA――」
天に向かって吼える。
「――AAAAAAAAAAAAAAAAA!!」
まるで人の形をした獣にでもなってしまったかのように咆哮をあげるリュウギ。
それを現実として受け止めることが、いおには出来なかった。
あれが梁瀬リュウギ?
本当にあれが兄と呼んでいた人?
そんなはずはない。
信じられない。
きっと何かが兄に取り付いたのだ。
それが兄を支配しようとしている。
「GAAAAAAAAAAAAAA!!」
リュウギの咆哮が響き渡る。
そして、異変が起きた。
リュウギの体が黒く変色していく。
極微の蟲が無数に集まり這い登っていくように、リュウギの体が黒く変質していく。
黒く染まったリュウギの肌に、ひび割れのように赤い線が走る。
毛細血管が全て浮き出たような様だ。
いおにはもう、兄の姿がよく見えなかった。
視界がにじんで、何もかもが良く見えなかった。
涙が、後か後から溢れてくる。
悲しいのか、恐ろしいのか、それすらもう分からなかった。
肩に手が置かれたのが分かった。
耳元で美しい声が囁く。
「見なさい。あれが今のお兄さんよ」
うそだ。
という言葉は声にはならなかった。
そんなことがあるはずがない。
あれが兄であるなんて。
あれはもう人間ですらない。
バケモノではないか。
それ――バケモノ――かつて兄であったもの――の体が、雄たけびが途切れると同時に、糸が切れたように倒れこむ。
すんでの所で地面に手をつき、転倒は免れる。
ゆっくりと上体を起こす。
その姿はもう人のものではなかった。
腐った果実のような黒い肌。
その肌には、毛細血管が浮き出ているのか、ひび割れのように赤い線がはしっている。
髪は色をなくして、白い。
そしてその目。
ナニモノかに元の眼球を抉り取られ、代わりに血の色のガラス玉をはめ込まれたような目だった。
向けられた視線にどんな表情があるのかなど、もう分からない。
その目はただ赤い。
涙を流し、震え脅えるしかないいおの耳元に、エリザベータは優しく囁く。
――大丈夫よ。
そして、こちらに向けられている赤い目に向かって声をかける。
「そんな目で見ないで。あなたがそうなったのは私じゃなくて、エマのせいなんだから」
「エマ・・・」
「そう。全てあの女のせい。あの女と出会ったことが、お兄さんの不幸の始まり。あの女と出会わなければ、お兄さんはヒトのままでいられたのに」
「あの女のせい・・・」
「そうよ」
エリザベータは答える。
今のいおに、その声はあまりにも、やさしく響いた。
しかし、いおに向けられるエリザベータの目はどこか覚めていて、唇に浮かぶ微笑に刻まれているのも、優しさだけではなかった。
エリザベータは視線をリュウギに向ける。
「何か言いたそうね」
微笑が、かすかに嘲りの色を帯びる。
「違う、とでも言いたいのかしら」
リュウギは――リュウギだったものは、何も答えなかった。
いや、答えたのかもしれない。
今、いおの耳に届いているこの耳障りな音――もしかすると『あれ』の声なのかもしれない。
ヒトの声とは、似ても似つかない音。
「お優しいことね。でも、そんな事誰も望んでいなかったということは分かる?あなた自身もね」
しかし、エリザベータにはその音が、きちんと『声』として聞こえているようだった。
リュウギだったものの口から音は漏れてこなかった。
赤いその目を、じっとエリザベータに向けている。
「だからそんな目で見ないで。しつこいようだけど、また言わせてもらうわ。あなたがそうなったのは、エマのせいなの。そして、あなたの言葉を借りるなら、それを選んだのはあなた自身」
リュウギは何も答えない。
赤い目をエリザベータから逸らすこともない。
ふう、とエリザベータはため息をつく。
「にらめっこも飽きたわ。あなたもこんな所にいてはまずいんじゃない。ほら、分かるでしょ。エマが今どうなっているのか」
突然、がくりとリュウギが膝を落とした。
改めてエリザベータを見る。
その顔は苦痛と憎悪で歪んでいた。
エリザベータは笑う。
「ほらほら。時間がないんじゃない?」
リュウギの赤い目が燃え上がったように見えた。
殺意がそこからどろどろと流れ出している。
リュウギは立ち上がる。
ふいに、忘れ物を思い出したように、いおに赤い目を向けた。
びくっ、といおの体が震える。
赤い目が見ている――体の震えが止まらない。
『それ』は赤い目を伏せると、言葉を発した。
確かに言葉だった。
いお。
そう聞こえた。
リュウギは軽く膝を折ると、地を蹴った。
信じがたい跳躍力を見せ宙に舞うと、弧を描きながら、その体はビルより数kmも離れた人口の森目指して落ちていった。
いおは茫然自失のまま、へたり込む。
体はもう震えてはいない。
脅え、恐怖、驚き、戸惑い、悲しみ――すべての感情が混濁し、頭の中は真っ白――何も考えられない。
そんないおを、エリザベータは見下ろしている。
義理とはいえ、兄、という近しい存在がヒトではないものになってしまった非現実的な出来事に、思考が停止してしまっているのだろう。
理屈ではそうと分かる。
だが、その気持ちを理解することは出来なかった。
それはもちろん、エリザベータ自身が非現実的な存在――ヒトではないものだから。
いおに同情することも、哀れに思うこともなかった。
「いお、立って」
その言葉は、どこか冷たく響く。
いおは声に従い、のろのろと立ち上がる。
その顔はまだ呆けている。
自分の言葉に素直に従ったいおに、エリザベータは微笑む。
いおを引き寄せると、胸に抱く。
優しく両腕で包み込む。
「いい子ね。いお」
胸の柔らかさ、伝わるエリザベータの温もりが、いおの心を徐々に解きほぐしていく。
いおはエリザベータの胸に顔をうずめて、泣いていた。
しばらくして泣き止むと、エリザベータから身を離す。
「・・・ごめんなさい」
エリザベータに抱かれたまま、しかし少しだけ身を硬くするいおに、エリザベータは微笑む。
「いいのよ」
そして再びいおを胸に引き寄せる。
「さあ、帰りましょう。送っていくわ」
「は、はい」
エリザベータの態度に戸惑いを覚えながらも、彼女にひきつけられる自分を、いおは感じていた。
そんな二人を面白くなさそうに、ナジャがふくれっ面で見ている。