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unhuman  作者: イナゴ
42/51

042

エマが部屋を出て行った後も、リュウギの中にはもやもやとした気持ちが消えずにあった。

その気持ちが何なのかわからないほど無自覚ではない。

エマが口にした『あの人』というほど無自覚ではない。

『あの人とは誰なのか?』とエマに問えるほど、リュウギは無神経さも図太さも勇気も、持ち合わせてはいなかった。

しかしエマがいない今、それを後悔している。

エマにはっきりと問えばよかった。

『あの人とは誰なのか?』

無神経であり図太くあり勇気を持ち合わせていればよかった。

しかし今、どく、と胸が高鳴ったのは、エマと『あの人』の関係を思って鼓動が不規則になったからではない。

リュウギ自身にもわからない理由で、突然心臓が小さく跳ね上がったのだ。

何かの気配を感じる。

気配、というよりは、かすかな予感めいたもの。

小さな音がした。

空気の流れを耳が聞いた――そんな、小さな音とも呼べない空気の揺らぎ。

リュウギは知らず、息を潜め耳をそばだて身を小さくしていた。

静かだ。物音をよく聞こうと神経を研ぎ澄ますと、逆に静かに感じるというのも不思議な話だ。

リュウギはそろそろと身を起こすと玄関に向かう。

あの、物音とも取れない小さな音は、そちらから聞こえたのだ。

ドアの隙間から紙片が差し込まれている。

用心深く、リュウギはそれを手に取る。

新聞などによく挟まれているような広告だった。

二つ折りにされている。

開いてみると、それは駅前に大型デパートがオープンするという内容のチラシだった。

お車の駐車にはお近くの立体駐車場をご利用ください、とある。

しかしこれは二年ほど前のものだ。

そのころにこの大型店に言った覚えがある。

なぜこんなものがドアの隙間にはさまれているのか?

疑問を持つ前に不思議な感覚がリュウギを襲った。

ずるり、と背骨を抜き取られてしまうような不快感。

同時に、意識がはるか高みにまで引き上げられてしまうような浮遊感。

世界と肉体の境界線が薄くなり、自己の輪郭が曖昧になって溶けていくような感覚。

恐怖を伴うそんな感覚の中で、リュウギは見た。

何かを見下ろしている。

町だ。

山間にある町――全景を、まるでミニチュアを見るように見下ろしている。

視界がにじむ、と思った次の瞬間には、新しい映像が目に映っていた。

ビルだ。

視界の中央にビルがある。

ビルを見下ろしている。

鳥の目を借りたように、町を俯瞰しているのは変わりないが、その尺度は五倍以上になっているようだった。

ビルの屋上に人がいるのが見える。

三人。

その人影が女性なのか男性なのかはわからない。

当然、顔も見えない。

なのにリュウギの中から突如湧き上がってきた感情は本物だった。

理由もわからないその感情がリュウギを動かす。

あそこに行かなければならない。

ふいにそこで意識は消える。

気付いたとき、リュウギはチラシを持ったまま、玄関に突っ伏していた。

混乱したまま身を起こす。

なんだったんだ今のは?

白昼夢というやつか?

言葉は聞いたことはあるが、それがどんなものかは知らないのでなんとも言えない。

しかし本当にあるのだろうか。

何の前触れもなく突然幻を見るなんてことが。

いや、前触れならあるのだが・・・。

リュウギは視線を落とし、握ったままのチラシを見る。

幻視が起きたきっかけはこのチラシを見たからだということはわかる。

しかし、なぜそれが幻視の引き金になったかはわからない。

幻、と言うだけあり、あの時見た映像はぼんやりとさえ思い出せない。

しかしそれでも最後に襲った感覚は本物だった。

本物だ。

感じた義務感は今も胸の奥に残っている。

あそこに行かなければならない。


   ***


駅前の立体駐車場はこの町には似合わない、無駄に高い建物だと、いおは思っている。

町を俯瞰したとき、そこだけがにょっきりと生えている印象。

だから屋上からの見晴らしは実に良い。

拉致同然に車に乗せられたいおは、車が郊外に出、どことも知れない場所に向かうのではないとわかると、多少はほっとした。

しかしエリザベータたちの意図はまるでわからない。

いおの困惑をよそに、車は立体駐車場に入ると、一階の空きスペースに駐車した。

「いお、降りて」

先に車外に出たエリザベータに促されるまま、いおも車を降りる。

素直に従うのには抵抗があったが、いまさら逆らったところで仕方がないことも分かっていた。

いおに続いてナジャも車を降りる。

そして、いおを押しのけるようにエリザベータの前に立つと、彼女を見上げ声を張る。

「ナジャも行く」

「お好きにどうぞ」

微笑んで答えるエリザベータ。

一転して硬質な声で、いおを促がす。

「ついてきて」

ためらい、動き出せずにいるいおのわき腹をナジャが小突いた。

「ん」

あごをしゃくって、いおの様子を確かめもせずに歩き出したエリザベータについて行け、と促がす。

自分より年下の女の子にそんな態度をとられムッとしたが、おとなしくエリザベータについて行った。

あの、どこへ行くんですか?

尋ねようとしたが、答えは返ってこない気がしてやめた。

エレベータに乗り込むエリザベータ。

ここまで来てはもう躊躇う事も出来ないので、いおはおとなしくエリザベータの後に続いた。

そして最後にナジャが乗り込む。

ドアが閉まり、エレベーターは上昇を開始した。

「あの、どこへ・・・?」

「屋上よ」

いおの問いに帰ってきたのは、簡潔な一言。

それ以上の説明を、エリザベータが続ける様子はなかった。

「はあ」

ため息と一緒に、そう頷く。

とりあえず屋上に着くまでは、居心地の悪いこの密室にいなくてはならないようだ。

ドアが開く。

最上階だ。

いおは大人しくエリザベータについて行く。

昇降口のドアをくぐると、屋上。

いおの視界いっぱいに、雲ひとつない青空が広がっていた。

なんて広い空だろう。

吸い込まれそうな心地になる。

「彼のほうが早かったみたいね」

知らない間に視線は上へ上へと向かい、蒼穹を体で感じようとしていたようだ。

エリザベータの声ではっと我に返ると、いおはエリザベータの視線を追った。

フェンスの前に人がいる。

彼もこの雲ひとつない青空に見とれていたのか、いおたちに気付いた様子はない。

エリザベータの声も聞こえなかったようだ。

しかし彼を見つめるいおの視線には気付いたのか、ふいに振り向いた。

「お兄ちゃん!?」

いおは驚きを隠せない。

それはリュウギとて同じだ。

「いお!?お前どうしてここに?」

「お兄ちゃんこそ」

言ってから、はっと気付く。

エリザベータは知っていたのではないか。

リュウギがここにいることを。

「あの、もしかして知っていたんですか?兄がいることを」

「ええ」

いおの問いかけに、エリザベータはあっさりと頷いた。

全く悪びれた様子はない。

そんなエリザベータに、どんな態度を返せばいいのか、いおは迷った。

怒るべきなのだろうか?

非難するべきなのだろうか?

どちらの態度も、いおには取れない。

「いお、その人は?」

リュウギが問いかけてくる。

二人が知り合いでないことに、なぜかほっとして、

「うん。えっと・・・エリザベータさん」

説明を続けようとして、名前以外何も知らないことに気付く。

しかし深くは考えず、エリザベータの隣にいる少女を指し示し、

「で、こっちがナジャちゃん」

「ちゃん、て言うな」

むすっとふくれっ面でナジャが言う。

いおは苦笑するしかなくて困り顔を兄に向けたが、リュウギからは何の反応も返ってこなかった。

ただ、きつい視線でいおを、いや、エリザベータを見ている。

「いお。そいつから離れろ」

一瞬、いおは兄の言葉が理解できなかった。

「そいつって・・・。お兄ちゃん、失礼でしょ!」

「本当にね」

さして気にしたふうでもなく、しかしため息をつくエリザベータに、いおは頭を下げる。

「すみません」

そんな自分を奇妙だと感じる部分もある。

彼女は自分を誘拐した犯人なのに・・・。

「いお、そいつから離れろ!こっちに来るんだ!」

「お兄ちゃん、いい加減にして!」

強情に繰り返す兄に、いおは怒鳴り返す。

リュウギに妹の声は届いていないようだった。

「俺にはわかる・・・。そいつは人間じゃない」

いおは我が耳を疑った。

兄は一体何を言っているのだろうか?

気まずくなった空気を和まそうとしての、兄なりのジョークなのだろうか?

余計に気まずくなっただけだ。

『そのジョークは笑えない』

そう兄に言おうとしたが、リュウギの表情はぴりぴりと張り詰めていて、いおは何も言えずにいる。

本当にどうしてしまったのだろうか?

リュウギは明らかにエリザベータに敵意を抱いている。

それに信じられないことだが、どうやら本気で、エリザベータは人間ではない、と思っているようだ。

それは狂人の思考だ。

目の前にいるのは、本当に兄なのだろうか?

「ふう」

エリザベータのため息が聞こえた。

いおは慌ててエリザベータに頭を下げる。

「ごめんなさい。兄が失礼なことを言って。今日の兄は、その――」

兄を弁護するための言葉を捜したが、見つからなかった。

「変なんです」

そんないおの様子がおかしかったのか、エリザベータは小さく笑った後

「いいのよ、いお。謝る必要はないわ。あなたは何も悪くないんだから。それにリュウギの言っていることは嘘ではないしね」

「え?」

「私、こう見えても人間じゃないの」

微笑みながら言うエリザベータを、いおはまじまじと見つめてしまう。

いおに向けられているエリザベータの微笑。

先の冗談めかした口調。

もちろん『人間ではない』などと、嘘に決まっている。

なのにそう言い切るのに抵抗があった。

エリザベータの作り物めいた完璧な美貌――それがあまりにも非人間的であったからかもしれない。

「そしてあなたのお兄さんも」

え?

「言うな!」

それが兄の声だということはわかったが、敵意と憎悪に満ちたこんな恐ろしい声をリュウギが出すことが出来るなんて、今まで知らなかった。

リュウギはどす黒く顔を歪ませて、エリザベータを睨みつけている。

声をかけて兄を落ち着かせたかったが、どんな言葉も出てこなかった。

「黙れ・・・黙れよ!」

同じ恐ろしい声で、兄がまた言う。

まるで救いを求めるように、いおはエリザベータを見る。

エリザベータは笑っていた。

あるいはそれは嘲笑だったのかもしれない。

だがそうと呼ぶには、唇に浮かんだその形は、あまりにも優雅で美しかった。

「そろそろかしら」

そろそろ?

脈絡のない言葉。

その意味するところを問うことは出来なかった。

苦悶の声が響き渡る。

リュウギが胸を押さえ、激しく肩を上下させていた。

そうしている間も、喘ぐように苦しげに叫び続ける。

「お兄ちゃん!」

駆け寄ろうとするいおを制したのはエリザベータだった。

強い力でいおの手首をつかんだのだ。

いおはエリザベータに非難の目を向ける。

エリザベータはいおの視線をまっすぐに受け止める。

「行っては駄目。見なさい、見るのよ」

自分を誘拐まがいに同行させ、一方的にこんなところにまで連れて来たエリザベータに、だが、いおはどうしても敵意を持つことが出来なかった。

それが今初めて、それに近い感情をエリザベータに感じた。

反抗心。

しかしそれでも、いおはエリザベータの言葉に従って、立ち止まり、兄を見た。

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