041
アパートを出ると、エマはとりあえず『コンビニ』に向かった。
『コンビニ』には何でも売っている、とリュウギが言っていた覚えがある。
いや、いおだったかもしれない。
そもそも聞いたのは『何でも売っている』ではなく、『とても便利だ』であったかもしれないが同じことだろう。
便利だ、と言うことは、何でも売っている、からに違いないからだ。
ともかくエマは、近くのコンビニに向かった。
道順はわかる。
迷うことはない。
リュウギと一緒にそこに出かけた。と言う記憶はないのだが、なぜか道順ははっきりとわかるのだ。
目の前に、立体地図が浮かび上がっているように、わかる。
しかしエマはそのことに驚かない。
これが自分の能力だと理解しているからだ。
異能の力。
これもまた、エマがヒトではない証だった。
店内に客はいなかった。
レジで手持ち無沙汰にしていた店員が、来客に顔を上げる。
びりっと電流を感じたかのように店員の体が揺れ、それから、エマから目を離せなくなったようだった。
店員の視線を張り付かせながら、エマは店内を見て回る。
見つめられていることを、気にしたふうはない。
ここに来るまでに、もう嫌というほど、そのての視線は浴びてきた。
すれ違う人、道行く人、エマの姿を見た全ての人が、その美しさに心奪われ、目を奪われていたのだから。
一通り店内を見て回った。
食材はある。
しかし何を買っていいのかわからない。
考えれば、エマは料理を作ったことがない。
(呑気なものだな)
頭蓋に楔を打ち込まれたような痛みがはしった。
(全く呑気なものだ。自分が置かれた状況を理解しているのか?)
声が響くたび、ずきずきと頭が痛む。
顔をしかめながら、エマは顔を上げる。
(聞いていた通りだな。確かにこいつはバカだ)
眉間のしわが深くなる。
不幸にもエマの視線の先には店員がいて、彼は今、青ざめている。震えてさえいた。
(八つ当たりはいかんな)
うるさい!
頭の中に響く嘲笑に、心の中で罵声を返すと、怒りもあらわな足取りで店を出て行った。
エマは周囲を見渡す。
不審な人物は見当たらない。
どこにいるの?
(わかるだろ)
頭に響く声には、いちいち嘲りの響きがある。
エマは思わず忌々しげに舌打ちして、それから意識を集中する。
目の前に、この町の地図が浮かび上がってくるような感覚があった。
その地図のある一転に、赤い小さな光が点る。
そこに男がいることがわかった。
鳥の目になって、はるか上空から町を見下ろし、点にしか見えない男の姿を見つける――過去の映像を思い出しているように、そんな映像がはっきりと浮かんでくる――その一方で、現実として目の前に広がっているのは町の景色――だが意識の乖離に、エマが戸惑うことはなかった。
ただ鳥の目となって、俯瞰した町の中に見つけた、男の居場所に対しての確信は、絶対的なものだった。
・・・ええ、わかる。
(来な。待ってるぜ)
エマは男の元に向かった。
その場所は初めて来る場所ではなかった。
先日の事件があった場所だ。
リュウギが一度死に、そしてヒトとしてではなく蘇った場所――。
そこに、あの時と同じように、黒尽くめの男が立っていた。
その男の正体を、エマはもう知っている。
先日の男と同じだ。
彼女の血を流し込まれた、人間の成れの果てだ。
彼自身が望んだのか、そうでないのかは知らないが、人間であることを捨ててしまった存在だ。
エマは男をじっと見つめる。
「ママが恋しくなった?」
エマは嘲笑する。
「何だ、それは。挑発のつもりか?」
男は冷静だった。
エマのほうがカチンと来る。
「気の短いやつだな。そうカッカするな」
さらには気付かれてしまう始末である。
「一体何なの!」
エマの一喝にも男は動じることなく、ただ一言。
「わかるだろ」
問われてエマはさっと怒りを収めた。
この男も前の男と同じ用件で、ここにいるに違いない。
エマに組織に戻るように命じ、そして従わないときは実力を行使するために、ここにいる。
「答えは同じよ。私には組織に戻る気は一切ないわ」
「それならそれでいい。俺は気にしない」
怪訝な表情のエマに、男は言う。
「事情が変わってな。お前はもう用無しということだ。俺の仕事はお前を処理することさ」
『処理する』という言葉を、エマは正しく理解した。
それは『この世から処理する』――つまり『殺す』と言うことだ。
エマは薄く笑った。
「無理ね」
「ほう。なぜ?」
「あなたは私に『処理』されるからよ」
エマは男の口調を真似る。
それを聞くと、男もまた薄く笑った。
「リュウギを待たせているの。さっさと終わらせてもらうわ」
エマを制するように、男は左腕を、彼女に向かって突き出した。
いぶかしむエマ。
男は右手で左手首をつかんだ。
んむ!と、男の口から漏れた声は、苦痛の声にも気合の声にも聞こえた。
左手首をつかむ男の右手に力がこもる。
左手首が伸びた?と思う間もなく、左腕がずるずると引き抜かれる。
引き抜かれているのは、腕そのものではない。
腕の中身、と言えばいいのか、腕の芯、と言えばいいのか、肩口までの骨が、血肉を纏い付かせたまま、ずるずると引き抜かれたのだ。
男の表情は苦痛に歪んでいるが、ついに全てを引き抜く。
左腕は力なくだらりと垂れ下がり、手首がなくなった腕の先から、ぼたぼたと血を滴らせていたが、それもすぐに止まる。
男はまるで剣でも持つように、引き抜いた左腕の骨を右手に持っている。
いや、確かに剣だった。
こびりついていた血肉が落ちると、そこに現われたのは、歪な形の刀身だったからだ。
柄が、左手首そのものということが、笑うに笑えない悪い冗談のようだった。
エマには言葉もない。
唖然とするばかり。
棒立ちのエマは、男にとっていい的だった。
男はすばやく一歩踏み込むと剣を振るった。
危ういところでエマは飛びのいた。
鋭い切っ先が目の前を走る。
男は満足気に笑う。
エマは男の嘲りを感じたが、今はいちいち気にしている暇はない。
それに男のその慢心は、必ず付け入る隙を生む。
だがそれを待つつもりはなかった。
それ以前に勝負をつける。
男は右腕を力なくたらし、手に握る剣の切っ先は、地面すれすれで宙に浮いている。
左腕はもちろん、だらりとたれている。
痛みはないようだが、当然使い物にはならないだろう。
それが男の敗因だ。
エマは男と対峙しながら、ゆっくりと右へ右へと移動していく。
男の左側面――死角の方へ。
男とて、エマの意図には気付いているだろう。
しかし動こうとはしない。
目だけでエマの姿を追う。
それは慢心ゆえだろうか。
男の油断でしかないのか?
いぶかしむ気持ちはあったが、エマはじりじりと動くのをやめなかった。
男はエマを目で追う。
体は動かない。
しかし視野角に限りがある以上、必ずエマの姿を見失う。
男もそれはわかっているだろうに――。
不審な気持ちを消せないままでも、しかしエマは好機を逃すつもりはなかった。
人間の目には、エマが消えたように見えただろう。
その動きを捉えることは、不可能だったからだ。
エマは男の首筋にざっくりと手刀を叩き込んで絶命させ、この面倒事を終わらせるつもりだった。
視界の隅に何かが映った。
それが何か考えることもなく、エマは倒れこむように身を反らせていた。
体制が崩れる。
追撃をかわすため大きく飛び退く。
跪いたまま、エマは男を見る。
男の左腕は、力なく垂れてはいなかった。
水平に持ち上がり、手首のちぎれた痕をエマに見せていた。
その傷跡は生木をへし折った後のように見える。
鋭い刃物の切っ先が、歪な楕円を見せている。
それは赤く濡れている。
ぽたりぽたりと滴が落ちる。
エマの血だった。
エマが飛び掛ってきた瞬間、男は使い物にならなくなったと見せかけていた腕を振るって、エマの喉元を切り裂いたのだ。
タイミングを計っていたのは、男のほうだった。
エマは男を睨みつける。
男の攻撃をかわせたのは、幸運というしかない。
もし、身動きしない男を不審に思わないまま飛び掛っていれば、エマの首は胴と離れ、宙を飛んで、ごとりと地面に落ちていたことだろう。
しかしそれでも首をざくりと切り裂かれたのだ。
人間なら致命傷である。
即死だ。
だがエマはヒトではない。
すでに血は止まっているし、切口も癒着し、再生が始まっている。
しかし喉元に当てた手にはべっとりと血がつき、腕の半ばまで真っ赤に染まっている。
「考えが甘いな」
男はニヤニヤと笑いながら、
凶器でしかなくなった左腕をぶらぶらと振って見せる。
体の中心に重い塊が生まれたのを、エマは感じた。
その塊がどろどろと溶け、体の隅々にまで染み込んでいくかのようだった。
不快だった。
こんな不快さを与えた男を許すことが出来なかった。
コロス。
ぎらぎら光るエマの目が、血を流し込まれたように、真っ赤に染まっていく。
男はうれしそうに笑う。
「そうだ、その意気だ。本気で来い!」
エマの姿が消えた。
刹那、男は飛び退く。
男がいた空間に、刃のような風が吹き上がる。
エマの手刀だった。
エマは身をかがめたまま、大きく踏み出す。
手刀を見舞う。
が、これもかわされる。
続けざまに攻撃を浴びせる。
反撃の隙を与えない。
だが男はそのことごとくをかわす。
男の顔に、やがて失望の色が浮かんでくる。
男の姿が消えた。
エマの手刀は虚空を貫く。
肩に激痛が走ったと同時に視界がぐらりと動く。
何が起こったのかを考える間もなく、一瞬宙に浮いたかと思うと、エマの体は背中から何かに激突した。
背骨の軋む音が聞こえるような強打。
息が止まる。
すばやく死角に入り込んだ男が、エマの腕を取ると力任せに振り回し、木に叩き付けたのだ。
エマの体を受け止めて、太い幹がしなる。
何が起こったか理解できないまま、しかしエマは体勢を立て直そうとする。
腹部が発火し肉が焼け爛れる――そんな感覚があった。
赤熱した石を胎に押し込まれたような激痛。
「ああ・・・っ!」
エマは悲鳴を上げていた。
男の剣がエマを貫いていた。
血が溢れ出し、エマの下半身が見る見る赤く染まっていく。
エマを刺し貫いたままの刀身を伝わり、血の滴がぽたぽたと落ちる。
「弱い。弱いな。弱すぎる。あの二人とはまるで違う。――何故だ」
エマに答えることは出来ない。
激痛に耐えるので精一杯だ。
男は冷ややかにエマを見つめる。
剣を引き抜いた。
血を吐き、エマの体はよろよろと前にのめる。
男はエマの後頭部めがけ、剣の柄頭を打ち下ろす。
めり込む勢いで男の左拳(すなわち剣の柄頭)が、エマの後頭部で、ご!と音を立てる。
びたん!
勢いよくエマの体が地面に叩きつけられる。
男は剣をくるりと半回転させ逆手に持つ。
エマを見下ろす冷ややかな表情を全く崩すことなく、剣をエマの背中に突き立てる。
刃を深く深く突き立てる。
まるで昆虫標本のように、エマの体は地面に縫い付けられた。
ごぼり。
と、エマの口から血が溢れ出す。
ごぼごぼと間をおかずあふれ続ける。
エマの苦悶の声だ。
苦痛の声を上げる代わりに、血を吐き続ける。
男の冷たい視線は変わらない。
それがかすかに変化したのは、エマの目に涙を見たときだった。
エマの目から涙があふれ続ける。
言葉を形作ろうと唇が動くのだが、口からあふれ出るのはやはり血だった。
男の表情が、絶望と呼べるものに変わる。
希望の全てを失った精気のない顔に。
「哀れだな・・・」
呟かれた言葉。
男は、刀身をさらにエマの体に沈めていく。
ごぼ。
と、新しい血を吐きながら、エマは声にならない声で叫び続けた。
助けて・・・助けて・・・助けて・・・。




