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「リュウギ」
床に足を投げ出し、壁に背を持たせかけて、梁瀬リュウギは宙に視線を向けていた。
時折、頭を前後に揺らし、後頭部を、ごつ、ごつ、と壁にぶつけている。
食べず、飲まず、眠らず、リュウギは、昨日からずっとそうしていた。
人間ではなくなった体が、どこまでこの手ひどい仕打ちに耐えられるのか、試すつもりでいるのかもしれない。
リュウギのそばには、エマが足をくずして、座っている。
彼女もまた、リュウギと同じように、昨日からその場に座ったまま、食べず、飲まず、眠っていない。
「リュウギ。いつまでそうしているつもり?」
リュウギは、ごつごつごつ、と壁に頭をぶつけている。
「いおではないけれど、やっぱりお仕事には、行ったほうがいいと思うの」
「・・・意味ない」
壁に頭をぶつけながら、リュウギはポツリと言葉を返した。
「え?」
「意味がないよ。――腹も減らない。喉も渇かない。眠くさえならない。何もしなくても生きていけるんじゃないか?どうせ死ぬこともないんだろう?――だったら仕事に意味なんかないじゃないか」
「でもお仕事はそれだけのものじゃないでしょ?」
重さのない言葉だった。
実感がこもっていない。
どこかで聞きかじった言葉なのだろう。
他人事のように言うエマにいらつく。
「平気だよ。そんなことしなくてもどうせ死なないんだし」
「でもそれだけじゃ・・・」
エマは繰り返す。
良識的な意見。
良識的で、無難。
「何もする気がしない」
それがリュウギの答えだった。
何一つやる気がしない。
体の中から力が出てこない。
立ち上がるのさえ億劫だ。
ただこうして座り込んでいるだけでさえ、ひどく体力と気力を使っている気がする。
エマは言葉を返さず、じっとリュウギを見る。
確かにリュウギの様子は無気力そのものだ。
壁に頭を打ち付ける以外の動作を、あれから全くしていない。
「ホント言うとね、リュウギ。私もお腹はすかないし、喉も渇かないし、眠くさえならないの」
ごつ、と壁に頭をぶつけ、リュウギの動きは止まった。
「だから、食べることも飲むことも眠ることも、必要なかった。必要がないから、私はそれをしなかった。そうしたら、そのことを心配する人がいたの。その人は、私が人間でないことも、だからこんな体なんだってことも、全部知っているのに。
でも私はその人を心配させたくなかったから、ちゃんと食事を取って、眠るようにした。そうすればあの人は安心してくれたから。私もうれしかったけど、でもなぜ皆と同じようにしないと心配だったのか、正直わからなかった。でも今ならあの人の気持ちがわかる気がする」
『あの人』・・・?一体誰なのだろうか?リュウギはそれが気になった。
「だって私、リュウギのことが心配だもの」
「え?」
「このままじゃいけないと思うの」
「エマがそれを言うのか」
「ごめんなさい。それを言われたら、私には謝る事しかできない。でもわかっているでしょ。いつまでもこうしているわけにはいかないって」
わかっている。
だからリュウギは何も答えられなかった。
「あなたはもう元には戻れない。全て私のせいだと言う事はわかっている。非難ならいくらでも受けるわ。でも現実としてリュウギは『変わって』しまった。その事実は受け止めてほしいの」
苦笑を浮かべた顔を、リュウギはエマに向ける。
そこには小さな怒りが隠されている。
「――でもリュウギが変わってしまったことは、私しか知らないこと。他の誰にもわからない。外見は何一つ変わっていないんだから。だからね、リュウギ。あなたは今までどおり振舞っていたほうがいいと思うの。ちゃんとご飯を食べて、お仕事に行って、夜には眠って――」
「そんな事・・・」
「気を楽に持ったほうがいいと思うわ。深刻になっても仕方ないんだし」
「他人事だと思って・・・」「
「でもそうでしょ」
「・・・」
エマには言われたくない、と言う気持ちがあるから、素直にはうなづけない。
ぱん、とエマは手を打ち笑顔を作る。
「そうだ。何か美味しいものでも作ってあげる」
突然のことに、リュウギは「あ、ああ」と頷くのがやっとだった。
何か食材はないかと、冷蔵庫を物色したエマだが、それらしいものは何もないのを発見しただけだった。
冷蔵庫の扉を閉める。
「お買い物に行って来るわ」
明らかにリュウギの意見は求めていなかった。
リュウギはため息をつく。
投げやりな気分が消せないまま、立ち上がると、脱ぎ散らかしていた上着から財布を取り出し、エマに手渡す。
「ありがとう」
笑顔で答えるエマに、無言でいることは出来なくて、リュウギは言った。
「無駄遣いは駄目だから」
「うん、わかってる」
じゃあ、行って来ます。と、部屋を出て行くエマを、リュウギは見送った。




