039
車内は静かだった。
誰も口を利かなかった。
いおは口が利けなかった。
一体これはどういうことだ?
誘拐?
拉致?
なぜ?
「あ、あの・・・」
声が震える。
これは明らかに恐怖からのものだった。
「ど、どこに行くんですか・・・?」
間の抜けた質問だった。
車の行き先以前に、聞かなければならないことはあるのに。
誰も何も答えなかった。
「あ、あの・・・」
体の芯が凍り付いていくようで、震える小さな声を絞り出すのが、やっとだった。
「ど、どうして、私、なんですか・・・」
こんな目にあわなければならない理由など、ない。
わけもわからず拉致されて、どこかに連れて行かれるなんて。
「な、なぜ、私なんですか・・・」
涙が出てきた。
声を上げて、泣きたかった。
「なぜ、とか、どうして、とか聞かれるのは嫌いなの」
車内に初めて、いお以外の声が流れた。
それは、いおの右隣に座る、他ならぬ、いおをさらった張本人――あの美女だった。
「は、はい・・・」
いおは頷いてしまう。
しかし、相手側にまったくいおを無視し続けるつもりではないとわかって、ほんの少しだけ気を強く持てる気がした。
「あ、あの・・・ど」
うして、と言いそうになって、慌てて別の言葉を捜す。
「あなたは、あなたたちは誰なんですか?・・・どうして、私を・・・?」
どうして、と結局、口にしてしまった。
しかし女性は、それをとがめることはせず、
「そうね。私たちはあなたを知っているのに、あなたは何も知らない。これは不公平ね」
そして、女性は名乗る。
「私はエリザベータ」
いおの左隣を示し、
「そっちの子はナジャ」
いおは、その少女を見た。
赤銅色の髪を持つ少女。
かなりの癖毛だった。
髪型がうまく整っているとは言いがたい。
印象としては、ぼさぼさである。
だがそれが、彼女――ナジャの持つ、野生の獣が放つような、どこか近寄りがたい雰囲気とうまく溶け合っていて、似合っていた。
ナジャの眉も、髪の毛と同じ赤銅色で、しかし瞳は東洋人のように黒く、肌はエリザベータと同じに、磁器のような白さを持っていた。
ガムでも噛んでいるのか、口をもぐもぐとさせている。
いおの視線に気付いているだろうに、こちらを見ようともしない。
「助手席にいるのが、ケント」
身を乗り出して「よろしく」と、いおに挨拶した彼は、人の良さそうな青年だった。
もちろん、見かけだけだろう。
そうでなければ、今ここにはいない。
彼は東洋人に見えた。
日本人かもしれない。
もしそうなら、ケントという名は、剣人と書くのだろうか?それとも健斗?
「運転しているのが、イザク」
彼はケントのように、場違いな愛想の良さは持っていないようだった。
運転に専念している。
いおはルームミラー越しにイザクの表情を盗み見る。
濃い色のサングラスをしている。
それしかわからない。
これで車内にいる全員の名前がわかった。
当然ながら、いおの知りたい答えは、宙に浮いたままだった。
「あの・・・それで、どうして、私を・・・」
そろそろと声を出したが、やはり『どうして』と言ってしまう。
しかし今度も、エリザベータがそれを気にした様子はなかった。
「梁瀬リュウギ」
ちらちらと、エリザベータを盗み見ていた、いおだったが、エリザベータが口にしたその名前に、エリザベータの横顔を凝視してしまう。
「最近、あなたのお兄さんの身近で、変わったことは起きていない?たとえば、身元不明の怪しい女が現われたとか」
「どうしてそれを・・・」
としか、いおには言えない。
まったく面識のないエリザベータが、いおの名を知っていた。
ならば、その身近の情報を彼女が――彼女たちが持っていたとしても、なんら不思議はない。
そう考え付くほど、今のいおが冷静なはずもない。
「妹としては、気が気でないんじゃない。そんな女が、お兄さんのそばにいるというのは」
「あなた・・誰なんですか?」
「エリザベータよ」
「名前じゃなくて・・・」
「聞いてもがっかりするだけよ。エマと言うあの女の素性を知っている、と言うだけなんだから」
もちろん『それだけ』ではない。
しかし、今のいおにそれが分かるはずもない。
「え・・・?あの女の・・・?」
いおに向いたエリザベータの顔は微笑んでいた。
その微笑に、いおは引き込まれる。
見つめてしまう。
そういえば初めてエリザベータを見たとき、既視感を覚えたのだった。
あれはエリザベータが、エマに似ていたからだ。
磁器のような白い肌、非人間的なまでに整った顔立ち――。
「お兄さんの不幸は、あの女と出会ったこと。それはあなたにとっても言えることかも。もうお兄さんとは一緒にいられないのだから」
どく。
と、不規則に心臓が鼓動を打った。
一時に大量の血液が送り出されたかのようだった。
息が苦しい。
「それって、どういう・・・」
エリザベータは答えなかった。
静かな微笑をいおに見せると、ふいと視線を逸らし、再び正面を向いてしまう。
彼女には、問いかけに答える気などまるでないんだと、いおにも分かった。
それでも、もう一つの質問をする。
「エマ、さん。て、何者なんですか」
「一言で言えば『脱走者』」
エリザベータは、前を向いたまま答えた。
「そして、裏切り者」
それを聞いたところで、やはり、いおにはエマの正体が分かるはずもない。
相変わらず『身元不明の怪しい女』でしかない。
もっと詳しくエマの正体について問いただしてみたかった。
エリザベータは、それを知っている、と自分で言っていたのだから。
しかしつい先ほど――いおと言葉を交わし、目をかわしていたときのエリザベータと違い、今は彼女からは、硬質な気配しか感じることが出来ない。
それで、いおはエリザベータに言葉をかけることを躊躇っていた。
しかし、何とかして聞き出したい。
いおは、エリザベータの横顔に、じっと視線を注いだ。
エマの正体は知りたい――だが、考えてみれば、エリザベータと言うこの女性こそ、正体が知れない存在なのだ。
なのに、エリザベータには、エマに感じたような、『よくないもの』を感じなかった。
いつしか、エリザベータに注がれたいおの視線は、熱を帯びたように潤んでくる。
「だめだから」
強い非難をこめた声が耳元でした。
はっと我に返り、いおは横を向く。
「だめだからね」
いおを睨みつけて、ナジャが言った。
「な、何が?」
ぞく、と背筋に振るえを感じながらも、いおは言葉を返す。
じいぃぃぃっと、ナジャはいおの顔から目を離さない。
居心地が悪い。
「ん」
突然、ナジャがいおに向かって、こぶしを突き出した。
「な、何?」
面食らういおに、ナジャは突き出したこぶしをゆすって見せる。
「ん」
何を握っているのだろうか?
それを受け取れと言うことか?
いおは、ナジャのこぶしの下に、開いた手を差し出した。
ナジャがこぶしをあけると、小さな丸いものが、ぽとり、いおの手のひらに落ちた。
小さく丸められた銀色の紙だった。
これは何かとナジャに問いただそうとして、はっと気付く。
そういえば、ナジャはもう、口をもぐもぐさせていない。
噛んでいたのがグミキャンディなら、胃の中に納まったということだが、もし、チューインガムならば、味のなくなったそれを、どこかに捨てたということだ。
たとえば、銀色の包み紙に包んで丸めて。
いおは手のひらにある紙くずを見る。
まさかこれが・・・。
「え、えーと・・・」
困惑するいおから視線を逸らし、ナジャはそっぽを向く。
いおは再び視線を落とす。
この紙くず、一体どうすればいいのだ。
もちろん車内に屑箱などない。




