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三人の姿が廊下の角を曲がって見えなくなると、いおは回れ右をする。
いおもまた、正しい帰宅部員として、家路に着かなければならない(もちろん、寄り道の一つやふたつ、するつもりであるが)。
廊下を歩きながら、いおは考えていた。
(楽しそうだったな)
美香子が、である。
本人に言わせれば、とんでもない誤解であろうが、二人の先輩とやり取りする美香子が、いおには、とても楽しそうに見えたのだ。
満ち足りているように、見えた。
美香子とは確かに親友であるが、あの時、いおは確かに、彼女との距離を感じていた。
心の距離だ。
自分にはないものを、美香子は持っている・・・。
この感情は、妬みであるし、僻みだ、という自覚はある。
単純に、いおも口げんかできる親しい先輩がほしい、と思う。
(私も部活に入ろうかな)
つらつら考えているうちに、玄関に着いたので、靴を履き替える。
校門を出ると、車が停まっていた。
間断なく車が行き来している車道の路肩に、一台のRVが停車している。
いおには、その車がどこのメーカーのものなのか、日本車なのかすらわからなかったが、ルーフからフロントガラスを通り、ボンネットへと続く流線型は、きれいだと思った。
が、もちろんそれ以上の興味を引かれることもなく、いおはそのまま歩いていく。
車に、あと数歩の距離まで近づいたときも、中を覗いてやろうという好奇心も、当然、沸かなかった。
だが、いおは歩みを止めた。
後部座席のドアが開き、車から降りてきた女性が、いおの前に立ったからだ。
「梁瀬いお、ね」
問う口調ではなかった。
事実確認のための、返答を促す声だ。
いおは答えることが出来なかった。
ぽかん、と口をあけて、女性に見入ってしまっていた。
こんな美しい女性を、いおは見たことがなかった。
雑誌やテレビの中でさえ。
おそらく《美》というものは、人間の創造をはるかに超えたところに、存在しているのだ。
今、この瞬間以前のいおが、誰かに「この世で一番美しいものを思い描いて見なさい」と言われたところで、いおには、それを想像することができなかっただろう。
せいぜいが、宝石?一面の花畑?空いっぱいの星空?としか、きっと答えられなかっただろう。
しかし今は違う。
目の前の女性を見た瞬間から、それは不可能ではなくなっていた。
なぜなら、同じ質問をされたならば、彼女を――目の前に立つこの女性を思い描けばいいのだから。
彼女こそ、美の化身だった。
瞼を閉じてさえ、その美しさは心に強く焼き付いていて、ありありとその姿を思い描くことが出来る。
しかし、脳裏に浮かんだその姿がどんなに美しくても、瞼を開け、目の前にいる彼女を見ると――本当の美しさを目にすると、途端にかすんでしまうのだ。
霧で出来た幻のように、跡形もなく消えてしまう。
彼女の美しさは、己の幻を許すほど、寛大ではなかった。
強烈な存在感を放っていた。
「違うの?」
女性が問いかけてくる。
いおは慌てた。
「え!あ、はい!・・・え?」
大きな声を返してから、違和感に気付く。
「じゃあ、乗って」
女性の腕がすっと伸びてきて、いおの腕をつかんだ。
くらっと来た。
なぜだかはわからない。
心臓がぐらぐらと胸の中で揺れだして、そのために血液の流れが不規則になり、頭がくらくらし、眩暈がし、体中が熱を帯びたようになって来た。
「な、なぜですか・・・?」
女性の意図が理解できずにいるのも確かであったが、いおの声を震わせているのは、体の中からやってくる昂ぶりだった。
顔が燃えるように熱い。
きっと、驚くほど真っ赤になっているに違いない。
この変調の原因が、いおにはわからない。
女性はただ、いおの目を覗き込んでいた。
途端に火照っていた顔から、さあぁと血の気が引くのがわかった。
心臓の鼓動は不規則なままだったが、脈打つたびに機能が低下していくような、不吉な考えが頭をよぎる。
「乗りなさい」
女性の声と同時に、いおの体は安定性を失った。
一瞬、視界の風景が大きく揺らいで、次いで体が落ち着いたとき、いおは車の後部座席に座っていた。
彼女の右隣に、女性が座る。
ドアが閉められた。
同時に、いおの体はシートに軽く押し付けられる。
車が動き出したのだ。




