037
「よお、大木。昨日は大変だったんだってな」
クラスメイトたちが作る、朝の喧騒の中でもよく通る声で、秋は、教室に入ってきた美香子に手を振る。
美香子は、すぐに秋を含んだいつもの四人に気付いたが、何のことを言われたのかは、すぐには気付かなかった。
昨日?
自問して、ようやく心当たりに気付く。
大変だった昨日の出来事――というと、一つしかない。
「まあね」
苦笑を返しつつ、美香子は、聞こえないとは承知の上で、答えた。
秋は、来い来い、と美香子を手招きする。
机に鞄を置くと、美香子は秋の席に向かった。
目の前に立った美香子を、秋は座ったままで、ニヤニヤと見上げる。
「どうしたの?」
「いやいやいや。お前もたくましくなったなあ、て思ってさ」
「たくましいって?」
「そういうところ。そういう余裕のあるところ」
これは氷見子だ。彼女も薄く笑っている。
「そうかなあ」
「そうだよ。昨日のことは聞いたよ。なのにいつもと変わらない大木ちゃん。それってすごいじゃん」
「ごめん。喋っちゃた」
佐奈の言葉を受けて、美香子に向かって手を合わせるいお。
秋が声をかけてきた時点で、そのことはわかっていたので、美香子は特に気にしない。
「うん。それは構わないけど」
「やっぱ余裕あるよ、お前」
再び、秋が感心する。
「自分ではふつうだと思うけど」
「だからそれがすごいんだって。聞いた感じじゃ、昨日も決定的みたいじゃん。かなりヤバイ。マジヤバ。もう終わりかも。なのに大木ちゃん、めそめそするでもなく、無理に元気出してるでもなく、ふつう。
あ、もしかして、もう諦めた?」
「まさかあ」
美香子は、笑いながら答える。
「諦めるなんてことはないよ。絶対に。リュウギさんからはっきりと返事を聞かない限りね。それに私、がんばるって決めたから。とりあえず、がんばる。そうじゃないと、さすがに、ね」
いお、秋、佐奈、氷見子は、しんみりとしてしまう。
「大人になったなあ」
うんうん、秋はうなづく。
「頭、撫でたりして」
小さな微笑を浮かべながら、氷見子は美香子の頭を撫でる。
美香子は困ったように照れ笑い。
「こうしちゃいられない。私もがんばらないと」
突如、一念発起したのか、佐奈が声を上げる。
「何を?」
なんとなく答えは予想できたが、とりあえず、いおは問うてみた。
「とりあえず来週からのテストかな」
やはり色気のないオチだった。
そして、放課後――。
秋、佐奈、氷見子の三人は、そぞれの部活動に行って、教室にはいない。
ちなみに、秋はバスケ部、佐奈は文芸部、氷見子は帰宅部である。
美香子も美術部に所属しているが、放課後の予定はすでに決まっている。
いおは、その美香子に付き合うことになるのだが、帰宅部である彼女には、それが部活動と言えた。
二人そろって、教室を出て、十歩も歩かないうちだった。
後ろから二人の生徒が走ってきたかと思うと、美香子といおを、通せんぼするように立ち止まる。
「どこに行く気だ。大木美香子とその友人」
腕を組み、仁王立ちする男子生徒に、いおは見覚えがなかった。
その横で腰に手を当てている女生徒にもだ。
だがもちろん、名指しで呼び止められた美香子は、二人を良く知っているようだった。
「部長・・・」
どんな顔をすればいいのか決めかねているような、困惑した様子でポツリと漏らす。
「もう一度問う。どこに行く気だ。大木美香子とその友人」
やはり仁王立ちのままでそう言った男子生徒が、美術部部長、伊達勢だった。
美香子とセットで呼ばれると言うことは、自分にも用があるんだろうかと、いおは思ってしまう。
「あの、えーと、そのう・・・」
「無断欠席はとてもいけないことなのよ。大木さん」
部長の質問に答えられずにいる美香子に、諭すように言ったのは、副部長の、清水レイナであるということを、いおはもちろん知らない。
「すみません。でもとても大事な用事があって・・・」
「大事、と言うならこちらもだ。モデルがいないことには何も始まらんのだぞ」
「他の人にモデルを変わってもらうことは出来ないんですか。たとえば部長とか」
「俺もそれは良い考えだと思うのだが、皆の考えは違うらしい」
「なら副部長は?」
「大木さん、あなたの変わりは誰にも務まらないのよ。スケッチされているときのあなたの困ったような笑顔――とても素敵だと言うことを知ってる?」
知りません、と答える代わりに、美香子は困ったように笑う。
「ともかくだ、大木。これだけははっきり言っておく。学生の本分は部活だ。四の五の言わずに一緒に来い」
「待って下さい。本当に大切な用があるんです」
「もしかして、家庭の事情、とかなの?」
「いえ、違いますけど・・・」
「なら問題ない」
「そうね」
ありますよお、と美香子が言い終わる前に、レイナの手がするりと伸びてきて、美香子の腕をさりげなく捉える。
腕を組むようにして、がっちりと胸元に引き寄せる。
「じゃあ行きましょう」
「ああ」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
美香子は、レイナから逃れようと、捉えられた腕を振りほどこうとするのだが、肘に当たるレイナの胸の感触は柔らかいのに、武道の達人に関節を極められているように、腕を振りほどくことが出来ない。
「ちょっと待って、待って下さい。本当に大切な用事があるんです。とても大切なんです。お願いです。副部長、腕を放してください。――お願いします、レイナさん!」
「だめ」
レイナの返答は短く、取り付くしまもなかった。
いおは、三人のこのやり取りを、美香子の助けに入ったほうがいいのかな、と考えつつ見守っていたのだが、少し戸惑った様子を見せているそんないおに、美術部部長、伊達勢は尋ねた。
「そう言うわけだ。君、大木は美術部が借り受けることになったのだが、いいかな?」
「はあ、どうぞ」
薄情な友人に、美香子は泣きそうになる。
「そんなあ、いおちゃあん」
もちろん、勢もレイナも同情しない。
美香子は観念したのか、無理に暴れることもせず、レイナに引きずられるように、二人についていく。
手を振りながら、見送るいお。
美香子は、最後まで薄情な友人を見やる。膨れっ面で。