036
「あー、むしゃくしゃする!改めて腹が立ってきた!」
突然、いおが叫んだのは、アパートがもう見えなくなってからだった。
「ど、どうしたの!?」
驚きながらも、見顔はつないだ手は離さない。
「やっぱり一発はったおすべきだった!美香子が余計なことするから」
「ご、ごめん」
「美香子には怒ってないよ。あの女に怒ってるんだからね」
「うん」
二人は手をつないだまま、言葉を交わす。
「でも、どういう意味なんだろうね。血の絆で結ばれた、なんて」
「頭がおかしいのよ。でなきゃ、あんなこと言うはずないし。お兄ちゃんはさ、きっとそのことに同情しちゃってるのよ。それを恋心と勘違いしてるんだよ、きっと」
「リュウギさん、優しいからね」
それには答えず、いおは曖昧に笑った。
優しい、というよりは、優柔不断なんだと、いおには映る。
確かに、人によってはそれが優しさに見えるだろうが、気の長いほうではない、いおにとっては、それは兄の短所――とまでは言わないまでも、長所とはとてもいえない。
だが考えてみると、いつもはおっとりのんびり、しかし、ここぞと言うところでは、自分を譲らない強さを持つ美香子とは、お似合いかもしれない。
いや、リュウギと美香子は、似合いの一組だ、恋人同士にふさわしい、そう思っているからこそ、美香子を応援するし、協力もしている。
「美香子、あんな女に負けないでよ」
「うん。そのつもり」
いおの励ましに、美香子は、頼りになるのだかならないのだか、よくわからない、ともかくも、彼女らしい言葉を返した。
******
「二人とも帰りましたよ」
「美香子ちゃんも来てたのか・・・」
リュウギの声は、独り言に近い。
エマは、そんなリュウギをじっと見つめながら
「あの子、リュウギのことが好きなんですって」
「うん。聞こえた」
リュウギは、ただ、ぼそりと答える。
「でも、どうして会わなかったの?」
「会えるわけないだろ!」
声を荒げ、リュウギはエマを睨みつけた。
彼女の言葉は、考えなしにしか聞こえない。
「今の俺はもう・・・、変わってしまったんだ!それはエマが一番良く知っているはずだろ!」
「でも、誰もそのことには気づかないと思う」
エマは、リュウギのきつい視線を静かに受け止めながら、答える。
エマに見つめられて、リュウギは落ち着きを取り戻した。
エマの言おうとしていることは、わかる。
確かにリュウギは、人とは違う『何か別のもの』に変わってしまった。
自分でそう考えている今でさえ、馬鹿げた冗談にしか思えないが、それは事実だった。
しかし外見上は、何も変わっていないのだ。
肉体が別の生物になろうとしていたあのときだけ――明らかにリュウギが『別のもの』に変わろうとしていたあのときだけ、その外見上から、リュウギがヒトではない『何か』に変わってしまったということが、隠しようもなく世界に曝されてしまっていたが、それが終わると、以前のリュウギ――彼がまだヒトと呼べるものだったころのリュウギと、少なくとも、外見上は何一つ、変わってはいないのだ。
しかし――
「自信がない」
リュウギはポツリと言った。
「いおには隠せない気がする」
それには二つの意味がある。
いおが、いつか気付いてしまうかもしれないという恐れと、リュウギ自身が、いつまでも隠し通しておけるか、という危惧だ。
いおに気付かれてしまうかもしれない――とは言っても、リュウギがヒトでなくなってしまったことに気付かれてしまうとは、さすがに思っていない。
だがリュウギの身に起きた明らかな変化――言葉にできないその変化を感じ取ってしまうかもしれないことを、恐れているのだ。
そして、いおはリュウギに問いただすだろう。
リュウギの身に起きた変化の正体と、その理由を。
はじめは脅しを入れながら。
次には、なだめすかして。
最後には、ただ言葉を待つように。
そうなると、リュウギは答えないわけにはいかなくなってしまう。
隠し通す自信がない、とはそういうことだ。
もちろん事実を告白したとして、いおが、それを信じてしまうとは思っていない。
「リュウギ、いおに甘いから」
「そんなんじゃないよ」
兄バカだ、と言われたような気がして、思わず声がとがってしまう。
しかし自分はどうして、こんなにも平静でいられるのだろう。
理由はなんとなくわかる。
エマがいるからだ。
エマがそばにいるから。
今のリュウギと同じように、エマも外見上はヒトとなんら変わりない。
しかしそれでも、エマもまた、ヒトではないのだ。
自分と同じ存在が、そばにいる。
その事実が、リュウギの心を、現実に繋ぎ止めてくれている。
今はもう、エマと自分は同じ存在。
言葉での説明は要らない。
肉体で、その事実を感じることが出来る。
二人の鼓動のリズムが重なって、耳元で聞こえる――そんな感覚。
トクントクントクントクントクン。
それは、体の内側から震えが来るような、ハーモニーだった。
自分の心臓は、この胸の奥で脈打っている――トクントクントクン。
エマの心臓も、彼女の胸の奥で脈打っている――トクントクントクン。
リュウギの視線が、エマの胸元に向かう。
あのふくらみの下で、その内側で、エマの赤い心臓は、鼓動を打っているのだ。
「どうしたの?」
「あ、いや」
リュウギはあわてて視線を外す。――ハーモニーが乱れている。
エマは、ゆっくりと笑う。
何もかもを見透かしているような、微笑。
そもそもエマがヒトでないことは、最初からわかっていたはずだ。
リュウギの運転する車が、エマをはねてしまったあのときに。
跳ね飛ばされたエマは、しかし無傷だった。
リュウギはもちろん、その異常さに驚いたのだったが、エマの美しさにこそ、魂を奪われてしまっていた。
いおが、そんなリュウギに呆れ、再三再四、エマの異様さを訴えたのも、無理はなかった。
事実、エマはヒトではなかったのだから。
きっと、いおにはリュウギが取り憑かれている様に見えただろう。
そしてついには、リュウギ自身もヒトではなくなってしまった。
やはり、いおにはこの事実を告げることは出来ない。
そしてこれから先、今までと同じように過ごしていけるのだろうか・・・。




