030
その日、梁瀬いおの機嫌は朝から悪かった。
いやな夢を見たからだ。
こんな夢だ。
どことも知れない場所に、いおはポツンと立っている。
風が吹いてきたと思ったら、あたり一面が花畑になる。
驚いていると声が聞こえてくる。
笑い声――楽しげな笑い声だ。
いおは、そちらに歩いていく。
一組の男女が、花畑の中でじゃれあっている。
兄――梁瀬リュウギとエマだ。
「お兄ちゃん!」
叫んだが、二人には聞こえていないようだった。
両手いっぱいに花を摘んでは、それを空に放り投げ、楽しそうに笑っている。
「お兄ちゃん!」
いおは、兄のもとを目指して駆けるのだが、なぜか二人からだんだんと遠ざかっていく。
何とか追いつこうと、必死に走る。
走れば走るほど、二人は遠ざかっていく。
アハハハハハ。
ウフフフフフ。
笑い声だけは、遠くならない。
走っても走っても、追いつけない。
それでもいおは諦めきれずに、走りに走って――
と、いう嫌な夢だった。
心理学者でなくても、なぜそんな夢を見てしまったのかくらい、分析できる。
昨日の出来事が、いおにこんな夢を見させたのだ。
常識的に考えれば、エマは明らかに不審人物である。
そのことをいくら説いても、リュウギは聞く耳持たず、挙句に、路上で兄妹喧嘩を披露する破目になってしまった。
なぜ、兄が無条件でエマを受け入れるのか、答えは一つしかない。
兄はエマに恋してしまったからだ。
どうかしている、と思う。
何とかして兄の眼を覚まさなければ、とも思う。
もちろんこれは、兄思いの妹としての、感情だ。
ともかくその日、いおの機嫌は悪く、それは学校に来てからも続いた。
いお自身、不思議だった。
そんなに根に持つタイプではないのに、基本的には楽天的な性格なのに、今度の件ばかりは、忘れることが出来ない。
気付けば、考え込んでいる。
エマとリュウギをどうやって別れさせようか・・・。
まるで性悪女のようだが、兄を思う妹としては、当然のことだ。
考えに考えに考えて考え抜いて、答えが出たのは、昼休みになって、お弁当を食べ、はああ、お腹いっぱい、と満足感に浸っているときだった。
突然、ひらめいたのだ。
エマと別れさせた後、そこに後釜を据えればいい。
そうすれば、兄も寂しくはないはずだ。
もちろん後釜にすえる人物は決まっている。
だから、今日から果敢にアタックさせることにした。
いおは席を立つと、四つの席で大きなテーブルを作って、おしゃべりしながらお弁当を食べている女生徒のグループに向かう。
その中の一人に、いきなり脳天チョップをお見舞いした。
涙目で背後をうかがい、そこにいおの姿を認めると、唇を尖らせ「何なのお」と言う大木美香子には構わず、いおは彼女の手元を覗き込むと、お弁当箱の中身を、まず目で味わい、「おいしそうね」当然のように腕を伸ばすと、おかずを一品つまみ上げ、ひょいと口の中に放り込む。
もぐもぐ。
「あー!私のエビフライ!」
美香子が悲鳴を上げる。
「わ!おっきな声!」
自分がしたことをすっかり忘れた様子で、いおは驚く。
涙目になる美香子を慰めるように、彼女の頭を撫でたのは、田辺秋。
「泣くなよ。たかがエビフライで」
「それにしても梁瀬ちゃんてば酷いよね。悪魔だね」
「悪魔っ子いおちゃん――なんて」
香川佐奈の言葉を受けて、和久氷見子がポツリと呟き、クフ、と笑う。
「・・・・・・」
無言が四人分。
「・・・エビフライ一つで、何でそこまで言われるわけ」
「だって大木、泣いてるし」
「こんなの嘘泣きに決まってるじゃん」
再び、美香子の脳天にチョップ。
「痛い・・・」
頭を抱えた美香子は、さらに涙をにじませる。
「ひっで。本当に酷いなお前。鬼だ」
「やっぱり悪魔なのね。梁瀬ちゃんは」
「悪魔っ子いおちゃん」
「それはもういい」
すかさず氷見子に突っ込みを入れながらも、いおは不機嫌そうに頬を膨らます。
美香子に八つ当たりしたいところだが、さすがにそれはぐっと堪えた。
「やっぱり機嫌が悪いな。なんかあったか」
いおの苛立ちをあおるのはもうやめにして、秋は、いおを気遣うように言った。
「朝からなんか機嫌悪かったよね」
「だから近づかないようにしてた」
「お気遣いどうも」
いおは、友人たちの心遣いに、ぞんざいに礼を言う。
すると、不思議に気分が少し落ち着いた。
「何があったんだ。話してみろよ。嫌な夢でも見たのか?髪型が決まらなかったのか?朝ごはん食べてきてないのか?」
「もしかしてその全部?それはちょっとたまんないかも」
「だからって八つ当たりはいけない」
うんうんうん、と三度、美香子がうなずく。
四人の視線に、「別にそんなつもりじゃ・・・」とどもりながらも、いおは悩みを打ち明けることにした。
「お兄ちゃんのことなんだけどね・・・」
あああー、と四人の口から間延びした声が漏れる。
「やっぱりね。そうじゃないかと思ってんだけど」
「意外性がない。つまんない」
「それにしても、梁瀬は本当にブラコンだな」
「リュウギさん・・・?」
ブラコン呼ばわりされても否定しないと言うことは、いおにも、やはり自覚があるらしい。
「うるさいなあ。だったらもういいわよ。何も言わない」
「駄目。そっちのほうがつまんない」
「怒ったのなら謝るよ。わり。だからさ、意地悪しないでくれよ」
「そうよ。ここまで来てだんまりなんて、許されないでしょ」
「私はなんとなくわかるけど・・・」
友人たちの勝手な言い草に、少し唇を尖らせながらも、いおは改めて話し始める。
「お兄ちゃんが正体の知れない女と知り合いになっちゃったの」
「・・・それは単に妹のヤキモチってやつでは?」
「てか、正体の知れない女って何?」
「本当によくわかんない人なんだよ。エマって名乗ってるけど本当かどうかも怪しいもんだし、それにどう見ても日本人じゃないのに日本語ぺらぺらだし、常識しらずの世間知らずだし、着替えもろくにないまま部屋に上がりこんでるし、しかも下着つけてないのよ!信じられる!?」
ほう。と友人たちは興味を引かれたのか、目を輝かせる。
美香子は、そのことを予想していなかったわけでもないし、覚悟もしていたのだろうが、やはりショックを受けた様子。
「それは詳しく聞きたいね」
「話をまとめると、お兄さんがエマさんを部屋に連れ込んでヤッチャッタ、ということになる」
「梁瀬兄もやるじゃん」
「ほ、本当なの・・・?」
「勝手に話を作らないで。お兄ちゃんにそんなこと出来るわけないじゃない。どうせ悶々として眠れなかったとか言うオチよ」
「うわ、情けね」
「襲っちゃわないと襲わないと」
「そして犯罪者?」
「だ、駄目だよ、それは、絶対・・・」
好き勝手言ってくれる友人たちに、いおは頭を抱える。
「とにかく私が言いたいのはね」
四人のペースに合わせていたのでは、話は一向に進まない。
いおは美香子をはたと見据えると
「このままじゃお兄ちゃんをあの人に取られちゃうってこと。美香子、あんたに言ってんのよ」
え、と美香子は声を上げる。
ほう、と三人に見つめられ、顔を赤くする。
「なるほど。そういうこと」
「やったじゃん。妹公認」
「兄を誘惑しろだなんて、ブラコンの言うこととは思えないな」
その通りだ、いお自信そう思う。
しかし美香子の恋を応援したくなるのは本心だ。
結果、エマがリュウギから離れれば、一石二鳥ではないか。
「そういうわけだからさ。美香子、あんたには頑張ってもらわないといけないの」
「無理だよお」




