029
血のように赤い満月――
その月が天に二つある。
見上げる。
しばらくそうしていると、月が輪郭を震わせるように、ぶるぶると震えだした。
どろどろと溶け出す。
ぼたりとぼたりと滴が落ちてくる。
滴、とはいっても、それは月の大きさに比してのことであり、見上げる彼にすれば、それは巨岩と変わらない。
赤い赤い血の塊のような巨岩が落ちてくるのだ。
そんなものをまともに受ければ、もちろん圧死。
だから彼は逃げようとする。
この場から離れようとする。
しかし体が動かない。
二つの赤い月の魔力に魅入られてしまったかのように、微動だに出来ない。
ぼたり。
滴が落ちてくる。
ぼたり。ぼたり。
滴が落ちてくる。
月は丸い形を失っていく。
奇妙に歪んでいく。
ぼたり。ぼたり。ぼたり。ぼたり。
滴――彼にとっては赤い巨岩が落ちてくるたび、月は歪に形を変えながら、天から消えていこうとしている。
轟音を伴い落下する巨岩は、しかし幸いにも彼を目指して落ちてくることはなかった。
しかしそれもいつまで続くか・・・。
彼の周囲はすでに穴ぼこだらけで、彼の体がいつ同じような穴の底に、影も形も残さず消えていくとも限らない。
いっそ目をつむりたかったが、それすら出来なかった。
ぼたり。ぼたり。
滴が落ちてくる。
地響きと轟音が、だんだんと近づいてくる。
ぼたりぼたりぼたりぼたりぼたりぼたりぼたりぼたり。
天から二つの月が消えたときには、彼の体は滴に押しつぶされて、どこにもなかった。
せり上がってくる悪寒に、無理やりに意識を覚醒させられ、彼は目を開けた。
「リュウギ・・・。よかった・・・。」
声のほうを向くと、エマの心配そうな顔があった。
脅えているようにも見える。
声を返すのも億劫だった。
それよりも、この悪寒を何とかしたくて、リュウギは洗面所に急いだ。
蛇口をひねり、吐く。
何もでてこない。
それでも、不快な塊が確かに腹の底にあるような気がして、数回えずくが、やはり何もでてこなかった。
しかしそのおかげか、悪寒は少し引いて、いくらか気分が楽になった。
そして改めて、ここがアパートの自分の部屋だと気付く。
だがいつの間に戻ってきたのか、その記憶がない。
変だなと思いつつ、リュウギは口をゆすぎ、顔を上げる。
鏡に顔が映る。
リュウギは悲鳴を上げていた。
バランスを崩し、しりもちをつく。
そして恐る恐る、もう一度、鏡を覗く。
落ち窪んだ眼窩は、真っ黒に見える。
目だけがぎょろぎょろと、異様な光を放っている。
頬はげっそりと痩せこけて、骨に皮がぴったりと張り付いている。
やつれた顔――そんな表現では物足りない。
まるで骸骨だ。
リュウギは恐る恐る、両手を顔の前に持っていった。
震える手のひらが見える。
鏡には手の甲が映っている。
10本の指で、包み込むようにして顔を覆う。
指の間から鏡を見る。
そこにはやはり、奇怪な虫にへばりつかれたような、骸骨の顔がある。
やはり鏡に映っているこれは、自分なのだ。
どんな言葉も頭に浮かばない。
なぜこんな姿になってしまったのか?
当然の疑問もわかない。
思考力が完全に停止していた。
「ごめんなさい、リュウギ・・・」
鏡の隅に、エマが映っていた。
リュウギははっと我に返った。
「見るなっ!」
こんな醜い姿・・・。
「見るな・・・」
うつむいたリュウギに背中に、エマの声がかかる。
「ごめんなさい、リュウギ・・・」
「どうしたんだ、俺・・・。何なんだよ、これは・・・」
震える声も、自分のものとは思えない。
まるで錆びた鉄をすり合わせて出している音に聞こえる。
「ごめんなさい、リュウギ・・・」
エマは三度、同じ言葉を繰り返し、そっとリュウギの背中を抱きしめた。
柔らかく暖かな重荷を感じながら、リュウギは問う。
「エマ、なぜ謝るんだ・・・。どうして・・・」
「私が悪いの。私のせいなの」
「どうして・・・」
「でもこんなことになるなんて思ってもいなかった。――それは信じて」
「どうして!」
リュウギの中からやってきた力は、怒り。なのだろうか?
彼は叫び振り返り、エマの肩を両手でがっしりと挟み込んだ。
骨に直接、皮を被せたような手から生まれているとはとても思えない強い力に、エマは顔をしかめる。
「どうしてだ!」
一体自分の体はどうしてしまったのか。
なぜ、こんな醜い姿になってしまったのか。
夢なのか。
悪夢なのか。
そうではない、なぜか確信を持って、そのことがわかる。
これは。
現実・・・。
「どうしてだ!」
リュウギは叫び、怒りに任せてエマを押し倒す。
「どうして!」
エマは脅えている。
それを見たとき、かっと腹の底が熱くなった。
エマの白い首筋に噛み付く――。




