025
男が勝ち誇った声を上げる。
傷口を押さえるエマの手は、血でべっとりと濡れている。
一瞬ごとに流れ出る血の量は減っていくとはいえ、内臓まで切り裂かれているために、完全に治癒するにはまだ時間がかかる。
エマは苦痛の表情のなかから、男を睨みつける。
敵意も殺意も消えてはいない。
なのに黒い影のように、不安が覆い被さってくるのがわかる。
その理由がエマ自身にもわからない。
死を覚悟しているのか?
この程度で?
まさか。
「さあて、じゃあ、死にな」
死刑宣告をし、男は左腕を高く掲げる。
振り下ろされた凶器は、脳天から自分の体を真っ二つにするだろう。
そうすればいくらなんでも助からない。
そう冷静に思考できるのに、エマの体は動かなかった。
「エマ!」
その声がなぜ今聞こえるのか、エマは不思議でならなかった。
それでもエマは、視線を男から声のしたほうに向けた。
梁瀬リュウギがいた。
エマの知る穏やかな彼からは想像できないほど、その顔は怒りに歪んでいた。
「お前!エマに何してる!」
抑えられない負の感情に、リュウギの声は裏返っていた。
面倒くさそうに男は振り返った。
左腕は、走ってくるリュウギに向かって横に振るわれる。
刃物の先端のように硬質化している指先が、リュウギの喉をさくりと裂いた。
リュウギの顔は、怒りの表情のまま固まっている。
男に駆け寄るのをやめ、その足は止まっている。
行き場をなくした運動エネルギーが、出口を求めるように喉の切り口から血が吹き出る。
そこでようやく自分のとるべき行動に気付いたように、リュウギの体が地面に倒れた。
男は自分が作った死体を不思議そうに見下ろす。
「何だ?こいつ」
「リュウギ!」
エマの悲鳴に、え?と一度振り返り、そしてまた死体に視線を戻すと
「こいつが?」
困惑した声を出す。
「まいったな。まずったか?」
と言いつつも、あっさりと結論を出す。
「まあいいか。いずれこうなっただろうし」
それで一切の興味をなくしたように、死体に背を向ける。
エマの、憎悪に濡れた目が向けられていた。
「何だよ、その目は」
「許さない・・・」
エマの、搾り出すような低い声。
「許さないってなんだよ。そもそもあんたがとっとと殺されてれば、こんなことにはならなかったんだぜ」
もちろん、エマはそんな勝手な理屈に耳を貸さない。
男をさらに睨みつける。
切り裂かれた腹部は、まだ完全には治癒していないが、血はもう止まっている。
男は油断している。
その油断を突いて、一撃で息の根を止めなければならない。
それが叶わなければ、男は二度とチャンスをくれないだろう。
エマは男に飛び掛ろうとした。
そして凍りつく。
男の背後に、信じられないものを見た。
男の背後に立った《それ》――。
あれほどの殺意を見せていたエマの顔が、驚愕の表情(恐怖の、と言ってもいい)を浮かべ、視線は凍り付いている。
ほぼ同時に男の全身が総毛立つ。
振り返る。
目の前には赤い双眸があった。
男が最後に感じたのは、頭をわしづかみにされたような感覚で、そして死んだ。
自分の頸骨が粉々になる音など男は聞いていなかっただろうが、男の頭をわしづかみにしていた手がぐいと動くと、男の首はありえないほうに曲がり、耳が首の根元にぴったりとくっついてしまっていた。
男の頭から手が離れると、その体は、人の形をした砂袋みたいに、どさりと地面に落ちた。
もう動かなかった。
さすがに蘇生は出来ないらしい。
赤い双眸は、自分が作った死体を見下ろすこともなく、ただまっすぐにエマに向けられている。
「リュウギ・・・」
エマは呟いた。
悪夢の中にいる気分で。
《それ》は梁瀬リュウギだった。
弛緩しきった顔面が、しきりとぴくぴく動いている。
男に切り裂かれた喉は、傷口を閉じている。
ズボンまでべっとりと血で濡れているが、傷口からもう血は流れていない。
そして両の目はただ赤かった。
一瞬にして眼球を入れ替えられてしまったかのように。
その赤い目はやはりエマに向けられたまま、何か言いたげにに唇がわなわなと震えている。
そのままがくりと膝を突いて、うつぶせに倒れこんだ。
「リュウギ!」
エマは叫び、急いで助け起こす。
呼吸をしていることにほっと胸をなでおろし、その異様さに気付く。
梁瀬リュウギは死んだのだ。
あの時、確かに。
男に喉を切り裂かれ、血をどろどろと流し、倒れ、死んだ。
即死だった。
なのに今、梁瀬リュウギは生きている。
蘇生を果たし、ゆっくりと息をしながら、エマの膝に抱かれている。
彼は誰なのか?
もちろん梁瀬リュウギだ。
ただし人間ではなくなった梁瀬リュウギ。




