002
ベッドの傍らに立つと、エリザベータは膝を折り手首を取ると、ぐっと腕をそらせた。
折れるような痛みにエマは顔をしかめる。
エリザベータは無造作にエマの腕にぷつりと注射し、中の液体をエマの体内に注入していく。
抵抗するすべを封じられたエマにはどうすることも出来なかった。
ただ正体の知れない液体が自分の中に入ってくるのを見ているしかなかった。
細い針が腕からぬき出される。
途端に体の心から悪寒がやってくる。
皮膚と肉のあるはずの無い隙間に、無数の小さな虫が入り込みうごめいているような、悪寒。
虚脱感が体中にあふれ、エマはぐったりとする。
頭の中をぐしゃぐしゃにかき回されているようで、思考はまとまらない。
ひどい眩暈で、天地が激しく入れ替わる。
「・・・いった、い…な、にをした、の・・・」
「言ったでしょ、お薬だって」
エリザベータは、瞳孔が激しく収縮するため、ぐるぐる回っているように見えるエマの目を覗き込んで答える。
「副作用はかなりひどいようだけれど」
立ち上がると、エリザベータはもうエマのことなどすっかり忘れてしまったかのように、ドアに向かう。
ナジャもエマの上から降りると、白衣のポケットから銀色の紙くずを取り出し、広げたそれに、もう何の味もしなくなったガムの噛みかすを吐き出すと、丸く包んでベッドの外に出ているエマの腕――上を向いている右手のひらにその銀紙を置く。
「捨てといて」
それから医療用カートを押して、エリザベータに続いて部屋を出る。
去り際にもう一度エリザベータは室内をのぞく。
ベッドの上の、だらしなく口を開いて、強い酩酊状態の中にいるエマに微笑む。
「それじゃあ、エマさん。お大事に」
「じに」
ナジャが短く言い終えるとドアが閉まった。
再び白一色に戻った室内。
エマの意識は、消える前に、手のひらの銀色の紙を見ていた。
******
人が人を作り出すことは可能なのだろうか?
無論、それは男女が営みの末に子を成す、ということではない。
父も母も持たず、己以前の歴史をまったく持たない、本当の意味での、完全なる固体としての存在者――としての、ヒトである。
可能だ、とする者たちがいた。
それも数千年前から。
しかし彼らがそれを証明出来るに至ったのは、21世紀、と呼ばれる時代になってからであった。
もちろん公にはされていない。
人が作り出した人、人ではない人、という意味で、生み出された三体は――アンヒューマン――と呼ばれた。
エマ。
ナジャ。
エリザベータ。
これが三対の識別名だった。
三体を調整していて判明したことなのだが、設計時には意図しなかった不死性が、正確には不死を思わせる治癒力が、三体ともにあることが分かった。
それと、それぞれに異なる特性があることも。
エマには、不定期な吸血衝動と驚異的な空間把握能力。
ナジャは、肉体に一部を武器と知る能力。
エリザベータからは、特筆すべきものは発見されず。
三体は再調整されるが、改善する様子は無かった。
ならば精神面を再調整しよう。
心を改変するのだ。
もちろんそれがデリケートな問題だということは理解されていた。
だから彼が呼ばれた。
J――と、仮にそう呼ぶ。
Jは、アンヒューマン創造計画の、メインスタッフの一人だった。
アンヒューマンの精神面を形成する作業においては、彼が責任者であった。
だからこそ今回の再調整も、彼に任せることになったのだ。
Jはまずアンヒューマンとの距離を縮めようとした。
信頼関係を築かなければ何も始まらないと考えたのだ。
アンヒューマンたちにそれぞれ与えられた部屋に、Jは通うようになった。
特に何をするでもない。
ただ言葉を交わすだけである。
会話だ。
Jは根気良く三人の部屋に通った。
その甲斐もあって、ある程度の信頼関係を築くことが出来た。
特にエマは、素直な好意をJに寄せた。
Jは、三人にはなるべく平等に接しようとしていたが、やはりどうしてもエマを贔屓してしまう形になった。
ナジャとエリザベータの部屋に通う時間は減り、逆に、エマと一緒にいる時間は増えた。
二人はまるで恋人同士のようだった。
もちろん、エマは自分の中にある感情が、恋と呼べるものなのかどうかの判断は出来なかったし、Jは自分の中に生まれた感情に気づかないようにしていた。
しかし完全に、エマとほかの二人の扱いには、大きな差が生まれていた。
どういった会話が成され、その結論に至ったかは分からない。おそらくはエマが懇願し、Jが了承した、といったところだろうか。
『エマを施設から連れ出し、外の世界を見せる』
二人の間でそんな約束が交わされていた。
冷静さを失っていたJはそれが可能だと考えていた(生来の楽天的な性格も、それを助けた)。
行動は実行され、成功した。
信じられないことに、二人は組織の追っ手から逃れることが出来たのだ。
Jとエマは海を越えた異国の地で暮らし始めた。
しかし蜜月は長くは続かなかった。
ある日、Jは見てしまった。
一人の男を。
組織で見知っていた顔だった。
明らかに組織からの追跡者だった。
彼らから逃れきることはついに出来なかった。
あるいは、それは最初からだったのかもしれない。
彼らは施設より大きな『町』というフィールドで、Jたちをずっと監視していたのかもしれない。
彼らに捉えられれば、死が待っていることは確実だ。
Jは決意した。
******
ドアを閉めるとエリザベータの顔から笑みが消えた。
溜め込んでいたものを吐き出すように息をつく。
そんなエリザベータをナジャは見上げる。
エリザベータの横顔は、なんだか厳しい。
「リズ?」
「ん?どうしたの?」
しかしナジャに向けられた顔は、いつものように優しい。
「ううん」
ふるふると頭を振るナジャに、エリザベータは微笑む。それから
「じゃあ、次に行きましょうか」
「次?」
「ええ。もう一人会わなくちゃならない人がいるの」
「誰?」
エリザベータは答えなかった。
「その前に着替えましょう。この格好のままでは、ね」