016
兄妹喧嘩というより、痴話喧嘩である。
これにはさすがの美香子もおろおろするばかり。
「どきなさいよ」
「嫌だ」
「どきなさいってば」
「嫌だ」
「どけ、つってんだろ!」
「下品だぞ!いお!」
兄妹は押し問答を繰り返す。
ドアから奥へは一歩も通すまいとするリュウギ。
何とか部屋へ入ろうとするいおだが、やはり分が悪い。
やがて、いおは諦めた様子で、兄を睨みつけ
「わかったわよ」
忌々しげに言った後、にやりと笑う。
「でも、それだけ必死になるってことは、よっぽど会わせたくない人がいるんだね。――まさか犯罪まがいのことは・・・いくらなんでもしてないよね?」
リュウギは悲しくなった。
そこまで信用されていないとは。
「お前、言うに事欠いて、いくらなんでもそれは――」
「隙あり!」
まったく予期していなかった。
両手で思いっきり胸を押され、リュウギはバランスを崩す。
見事にしりもちをついた。
「ごたーいめーん」
勝ち誇るいお。
そして彼女は見た。
背筋をしゃんと伸ばして、すたすたと歩くチンパンジーを目の前にしたような表情になる。
美香子も複雑な心境ながら、好奇心を抑えられず、いおの後ろから彼女の視線の先をうかがう。
生まれて初めて見るものを前にしたように、ぽかんとする。
彼女を見たとき、最初は人形かと思った。
等身大の、恐ろしく精巧に出来た人形。
人間離れした美貌のせいばかりだけでなく、どこか非人間的な雰囲気を――作り物めいた無機的な気配を感じてしまったからだ。
エマは、少女たちのそんな反応が楽しいのか、くすくす笑う。
そして自己紹介をする。
「はじめまして。エマです」
エマのやわらかい笑顔に、いおも美香子も我知らずどぎまぎしてしまう。
「あ、はい。いおです」
「美香子です」
つられた様に答える二人。
少し間の抜けた挨拶だった。
「いおリュウギの妹なんですよね」
「あ、はい」
「あまり似てませんね」
ふふ、と笑うエマ。
カチン、と来た。
エマの笑顔は相変わらず優しげに見えるのだが、その笑顔が理由もなく、いおを苛立たせるものに変わっていた。
「すみません、似てなくて」
いおの拗ねた様子がおかしいのか、エマはまた笑う。
またしても、カチンと来る。
見下されているようだ。
いおは、はっきりと自覚した。
この女は嫌いだ。
「リュウギさん、その人、もしかして、彼女・・・ですか?」
弱々しい美香子の声。
彼女はいおとは対照的に、激しく動揺していた。
「リュウギさん、彼女、いたんですか・・・?」
「あ、いや、違うんだ。そうじゃないんだよ」
うろたえるリュウギの様子から、美香子は正反対の言葉を聞いてしまう。
「失礼します!」
叫んで、美香子は走り出す。
「美香子!」
いおは叫んだが、友人は立ち止まらなかった。
振り返り兄を睨みつける。
「バカ!」
平手を見舞う。
リュウギはあかくなった頬を抑えて
「何でぶつ?」
「鈍感!」
脛に蹴りを入れ、いおは美香子の後を追う。
途中振り返り、捨て台詞を残すのも忘れない。
「お兄ちゃんのバカー!アホー!」
脛を押さえてうずくまっているリュウギに、妹を呼び止めることは出来なかった。
痛みをこらえるだけで精一杯だったのだ。
痛みが引いたところで、リュウギはため息をつく。
「はあ」
振り返ると照れ笑いを浮かべて
「なんだか誤解されちゃったね」
「別にいいんじゃないですか」
エマは困ったふうもなくそう答えた。
「それに、本当のことを言ったところで、混乱させるだけです」
それもそうか、とリュウギも思う。
彼自身、なんだか状況に流されて、自然とエマを受け入れているが、彼女との出会いを思い出すと、いまだに信じられないし、ありえないことだとだと思う。
それなのにエマを受け入れている――自身の心境が一番不思議だった。
「それにしても」
ふふ、とエマは笑う。
「いお、て面白い人ですね」
「はたから見てる分にはね」
リュウギは苦笑する。
殴られたりぶたれたりする身には、面白くもなんともない。
「彼女のこと、好きなんですね」
「大事な妹だから」
照れながらもリュウギは答える。
「でも血はつながっていないんでしょう」
リュウギは言葉を失う。
まじまじとエマを見つめる。
「どうしてそれを・・・」
「どうでもいいじゃないですか。そんなこと」
『どうでも』良くはないし、リュウギにとっては、『そんなこと』でもない。
やはり彼女は普通じゃない――その思いを強くする。
しかしそれが、恐怖心や忌避心につながらなかった。
「ねえ、リュウギ。それより私、これからどうしたらいいんでしょう?」
「え?」
「ここにいてもいいですか?」
「え、それは・・・」
「リュウギ、言ってくれたでしょ。『俺が付いてる』って。その言葉、信じていいんですよね。嘘だって言っても遅いですから。私、信じましたから」
「う・・・」
「お願い、リュウギ。『ここにいてもいい』って言ってください。私、ほかに頼れる人いないんです。リュウギだけなんです」
エマは涙をこらえている。
泣くまい、としている。
リュウギを必死で見つめえいる。
拒絶の言葉を口に出せるほど、リュウギは冷たくも(あるいは、強くも)、なかった。