序章
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豊かで平和なイデアール王国。
かつてこの地は、国と呼ぶにはあまりに不安定で、争いは日常のように繰り返されていた。
血は流れ、正しさよりも力だけが秩序を決める時代。その混沌を終わらせたのが、初代皇帝エーレ帝である。
卓越した知略と統率力で諸国を束ね、ひとつの王国として統一したその偉業は、今もなお“始まりの神話”として語られている。
エーレ帝の時代は、今よりもずっと世界の仕組みがはっきりしていた頃だと言われている。
錬金術もまだ禁忌ではなく、国を支える知識のひとつとして扱われていた。
のちに、エーレ帝の黄金期の再来とともに語られることになる2つの名がある。
イデアール王国専属錬金術師――ゾンネ。
旧王家の血を引く錬金術師として。未来の現王国の富と技術体系を支えることになる、稀代の才女。しかし当時、その名は同時に、もう一つの意味を持っていた。
“近づくべきではない過去”。
理由は誰も正確には語らない。ただ、人々は本能的に距離を取る。まるでその存在そのものが、忘れたい時代を思い出させるかのように。歴史には、必ず“残されたもの”がある。
忘れられた血。
消えなかった系譜。
そして、語られなくなった王族。
それは、エーレ帝以前の荒れた時代に存在していた旧王家の名残。争いの中心にあり、同時に争いを生み続けたとされるその血筋は、やがて歴史から距離を置かれるようにして姿を消した。
――そう、表向きは。
その血は、今もなお残っている。
もう一人は王国外交官シュテルン。
完璧な振る舞いと洗練された言葉遣いで知られる貴族の青年。
誰に対しても礼を欠かさず、しかし誰にも深く踏み込ませない距離を保つ存在だった。人の感情を読むことに長けながら、それを“遊び”として扱う傾向があった。
外交の場では、常に穏やかな収束へと話を導く人物と評されている。
その若さに似合わぬ強引さを見せない交渉、対立が自然と和らいでいく手腕は、社交界で「若き理性的な調停者」と呼ばれていた。
だがその一方で、社交界では別の顔も知られていた。誰に対しても優しく、軽やかに距離を詰めるその態度で、ただ外交官としての微笑みを向けるだけで、誰もが勝手に恋に落ちてしまう。
特定の誰かに執着することはなく、しかし相手に「自分だけ特別なのでは」と思わせる不思議な振る舞いをする人物だった。
実際には、誰とも深く関わろうとはしていない。ただ、その場その場で最も心地よい距離を選んでいるだけだった。
その存在はまだ誰にも知られていなかったが、やがてひとりの男とひとりの女の間に、静かに結び目を残すことになる。
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