18
「マスタ!寝ていなくてはいけないのです」
鍵盤の音につられて、アンドロイドが入ってきた。ちょうどいい。
「今からつくるぞ」
最近ではめずらしく、今日の私は気分がいい。黒鍵と白鍵と、交互に指を滑らせながらそう言うと、アンドロイドは力の抜けるような間抜けな声を上げた。
「ほぇ?」
「お前の曲だよ。譜面を書き起こすのも面倒くさい。即興でいくから、ついてこい」
「ハ、ハイ! でも、マスタ」
「なに?」
「お隣さんに言われているのです。マスタは寝かせておくようにと」
「生きているか死んでいるか解らないようなヤツの戯言なんて放っておけ」
「でも」
「おい。お前のマスタは誰だ? 私か? それともお隣男か?」
せっかくの、久しぶりの上機嫌に水を差すとは無粋なヤツだと睨みつけると、アンドロイドは慌てたようにジタバタした。
「マ、マスタはマスタなのです。僕のマスタは、マスタなのですよ」
その返事に大いに満足して、私は大きく頷いた。
「でしょ。だから、こっちが優先。はい、そこに立つ」
それでも、アンドロイドは困ったように、おたおたと手を振り回して、「でも、でも」と繰り返している。なんとか私を宥めて、ベッドに戻そうと考えているらしい。その仕草がおかしくて、私はつい笑ってしまった。
「大丈夫だよ。今日は気分がいいから」
外の白くて埃っぽい晴天とは比べものにならないくらい、今日の私は最高の快晴である。それに。
「私の頭の中にだけあったって、どうしようもないでしょう?」
唄は、歌われてこその唄だ。それ以上でも、以下でもない。私の頭の中だけで流れていたって、誰にも伝わらない。それは無いのと同じなのだ。
「今までは、殆ど商業用ばかりをつくってきたけど、今日は違うぞ。私もお前も原点回帰だ。即興だし、世に出ることも、出すつもりもない。お前だけの唄だ」
しばらく使っていなかった鍵盤は、少し調律がずれている。久しぶりに鍵盤を叩く私の指も、少し回らない。久しぶりに起き上がったから、やっぱり少し平衡感覚がフラフラしている。
でも、そのどれもが全部、許容範囲内だ。少しずつ足りないいくつかの要素も、音を生み出し、和音を奏でる指先の感覚には敵わない。爪の先から伝わってくる高揚感の前では、取るに足りない瑣末な小石でしかないのだ。
「どうする? 歌う? 歌わない?」
「歌います!」
私に感化されたのか、さっきの困った顔はどこへやったのか、アンドロイドは眸を輝かせて大きく頷いた。
よしよし、いい子だ。
「ガンガン行くぞ」
「まかせてください!」
音は、一度、掴んでしまえば、尽きることがない。湧き水のように、溢れ、流れていく。空気に織り込まれていく音に身をまかせ、その一瞬先にある、未知の旋律を、私は紡ぐのだ。
誰に気兼ねすることもない。
今は試行錯誤で音を探すよりも、これは、私からアンドロイドへ贈る唄なのだから。
そうだね。
君がここに独り、残るというのなら。
私はせめて、音を置いていこう。
いつかオンボロになって、バグが生じて、何も思い出せなくなったって。
君が歌った唄は、ずっとこの大気の中にある。
音が消えて、空気の振動がなくなっても、消えたりはしない。
風は音をずっと覚えている。きちんとすべてを織り込んで、運んでくれるんだ。
だから今は、ありったけの想いを込めて、歌うといい。
いつか忘れてしまったって構わない。
思い出したくなったら、その時は風の中から音を拾えばいい。
単音が重なって和音になるように、砂の一掬いからだって、唄は生まれる。零れ落ちたって、また拾えばいいんだ。
餞にもならないけれど、せめて、めいいっぱいの想いを込めて。
これが、私にできる、唯一のことだから――――。