17
「マスタは、この家から出て行くのですか?」
薄闇の中で、アンドロイドの双眸がわずかに煌いた。静かで、澄んだ美しい眼差しが一瞬、私の思考回路を止めた。
「マスタも、街のヒトタチのように、ここからいなくなるのですか?」
困ったように少し首を傾げる。聞き慣れたアンドロイドの穏やかな声が、私の心を落ち着かせた。
「いや――――、私は、ここを出て行くつもりはない」
頭を振る。私はここを離れない。死ぬまで、いや――――、死んだ後もずっと。
「なら、僕もここにいます」
「お前、それがどういうことが解っているのか?」
私がここに残ることと、アンドロイドがここに残ることとでは、意味が違う。
「でも、ここにはマスタも、マスタの唄もあるから――――」
その瞬間、眼の縁から溢れて、一気に零れ落ちていた。
ずっと張っていた緊張の糸が、柔らかな布に包まれて、そっと糸をたわませた。
アンドロイドは、立ち上がって「危ないですよ」と、刃を掴んだ。
「駄目です。これは料理に使うものであって、今は要らないものですよ」
震える私の両手から、そっと包丁を取り上げた。
私はしゃくりあげていた。
アンドロイドは困ったように、私の背中を優しくなでる。
「マスタ、さっきから泣き虫ですね」
バカタレ、さっきは泣いていない。でも。そう言う私の声も、嗚咽に埋もれた。
それもようやく収まってきた頃、私はアンドロイドが素手で薄刃を握り締めていることに気づいた。
「バ、バカ! 刃をそのまま握るやつがあるか」
慌ててアンドロイドの手から包丁を奪い取って、遠くへ投げた。掌を開かせ、疵を確認する。
掌は、皮膚の薄皮がめくれて、ひとすじの白い切り傷が残った。いくら合成だからと言っても、皮膚は人間同様に柔らかいのだ。刃を握れば、皮膚が削れて怪我をする。
私は、何をやろうとしていたのだろう。私は、アンドロイドを傷つけてしまったのだ。
「僕は、大丈夫ですよ」
はらはらと泣く私に、アンドロイドは穏やかに笑った。
それがまた悲しくて、私はまた涙を流した。
アンドロイドは、どこまで解っているのだろうか。
この、荒野に残るということを。
やがては枯れた草木さえ失くなり、砂に埋もれていくことの意味を。
私は、解っているのに。それでも私は、大丈夫と言ったあの子の言葉を、信じたいと思った。
私は、――――ずるいから。