14
「や。二ヶ月ぶり」
軽快に片手を上げてみせたのだが、案の定、私を見た途端にお隣男は絶句した。
まぁ、そういう反応になるだろう。
持っていた荷物を投げ出して突進してくるお隣男を無視して、私は挙げたままの手をアンドロイドに向けた。
「珈琲ふたつ、よろしく」
「ハーイ」
アンドロイドが出て行くのを確認してから、お隣男が何かを言い出す前に、私のほうから口を開いた。
「いや、いま、ちょっとダイエットしてて」
「…………やりすぎだよ」
苦しい言い訳だが、お隣男の気勢を削ぐには充分だったようだ。
彼は深い溜め息をつくと、手前の椅子を引き寄せて座った。片手で頭を抱えながら固く眼を閉じ、やがて覚悟を決めたように小さく息を吸った。
「…………いつから」
「ダイエットは、二ヶ月前から」
「冗談で聞いてるんじゃないんだよ」
「………………ごめん」
これ以上は、誤魔化しも利かないなと、私も覚悟を決める。ゆっくりと口を開いた。
「実は、結構前から」
「……具体的には?」
「気がついたのは、半年以上前」
お隣男は息を飲んだ。頭を振って、そのままテーブルの上で抱え込む。
ドアがノックされ、アンドロイドが入ってきた。
「マスタ、コーヒー、淹りました」
「ありがとさん。そこに置いておいて」
「お隣さん、どうかしたのですか?」
「長旅で疲れてるんでしょ」
「――――うん、そう。疲れてるんだ」
お隣男は頭を上げると、アンドロイドを振り返った。
「そう、君にお土産があるんだ。そこの鞄に入っているから、向こうでお食べ」
鞄を開けたアンドロイドが「やったー!」とはしゃいだ声を上げた。嬉しそうに台所に駆けていく後姿が、何とも微笑ましい。それを見ながら、お隣男が言った。
「君に、ワクチンを持ってきたんだ。向こうでも品薄で、手に入れるのに時間がかかってしまった。俺はもう打ってある。遅くなって、――――悪かった」
だからわざわざ、戻ってきたのか――――。
「なにも悪くないよ」
うな垂れる彼の頭を、ゲンコツで小突く。
「黙っていたのは私だし、むしろ悪いのは私のほう。せっかく持って帰ってきてくれたものだけど、それ――――、もう効かないわ」
彼は、何も言わなかった。ただ、拳を額に当てて、小さく肩を震わせていた。
「と、いうことで、あの子を連れて行ってもらいたいんだけど」
努めて明るい声を出すと、それはずいぶんと奇妙な音で部屋に響いた。軽く咳払いをして、声のトーンを元に戻す。
「ここに残すわけにもいかないし。あんたが向こうに戻るときでいいからさ。んで、向こうで大事に育ててやってよ」
お隣男が、私を見返した。
「君は、――――それでいいの?」
――――いいに決まっている。
その簡単な一言が、言えなかった。眼を閉じて考える。
私は、これでいいのか? でも、――――そうだ。これは既に決めたことなのだ。軽く息を吸って、閉じていた眼を開いた。
「もちろん」
だって他に、術がない。
お隣男は目を閉じて、深い溜め息をついた。
「あの子が、それを望むのなら――――」
「うん。言って、きかせる」
私も安堵の息をつく。そう、これでいいのだ。きっとこれが一番、正解に近い。
「言っておくけど、君の意志じゃなくて、尊重するのはあの子の意志だからね。君が何を言ったって、アンドロイドが頷かなければ、俺は連れて行かないから」
冷めかけたコーヒーを一気に煽って、お隣男はそう言う。
「じゃないと、君が独りになるじゃないか」
そう、彼はこくいう男なのだ。知らず、口元に笑みが浮かんだ。
「そのことなら気にしなくていいよ。自業自得だし、覚悟も出来てる」
そんな覚悟いらないよ、という言葉を、お隣男は飲み込んだようだった。代わりに、彼も覚悟を決めたように、ひとつ大きく頷いた。
「俺、しばらくこっちに残るよ。っていっても向こうでもやらなきゃいけないことがあるし、買い出しやらなんやらで結構、頻繁に空けることになると思うけど。取り敢えずは俺も、ここに残る」
「ムリしなくていいよ。ここら辺も、かなり不便になっちゃったし、向こうで早く自分の足場を作ったほうがいいと思うけど」
その気持ちだけで、私は充分だった。
お隣男は、ふて腐れたようにそっぽを向いた。
「君だって、自分の好きなようにやってきたじゃないか。俺だって好きなようにやらせてもらう。それだけだよ」
そしてブツブツと呟いた。
「なんだよ。俺を追い出したいのかよ」
ぼやく姿が、なぜだかやたらと可笑しくて、私は思わず声にだして笑ってしまった。
「ごめん。そうじゃないんだ。うん、解った。好きにすればいい」
私は贅沢者だ。そして、こういう時じゃないと、気づかないバカモノだ。
どれだけ素晴らしいものを持っていたのか、手放す段にならないと、気づけないのだ。
いつでも私を見限ってくれていい。時期を間違えないで欲しい。情に引きずられないで欲しい。足を引っ張る枷にはなりたくない。
それでも最後には、差し出される手に甘えてしまう、上っ面ばかりのどうしようもないヘタレだ。
ポツリと呟く。聞こえるか、怪しいくらいの小さな声で。
「ごめん。…………ありがとう」